夜長姫と耳男
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文体と構造
『夜長姫と耳男』は昔話[11]、童話[12]寓話[3]などを思わせる説話体[13]の作品であり、物語は一貫して耳男(「オレ」)の一人称の語りによって進行する[11]。その昔話風の印象は、幾つかの異なった話を合体させたかのような小説全体の趣[11]、耳をそぎ落とされたり、蛇の血を飲んだりといった血なまぐさい素材[14]、それに青笠、古釜、馬耳、夜長といった、生活の中からとられた登場人物の名称[注釈 5]などによっても深められている[16]。安吾の説話体の小説としてはほかに『桜の森の満開の下』(1947年)、『紫大納言』(1941年)が知られており、この3作はいずれも一組の男女を中心に扱っていること、男から女へ向かう意識のみが描かれ、その逆は描かれないこと、男が現実の住人であるのに対し女は「異界」の存在であるなど共通点が多い[17]。また『夜長姫と耳男』には、耳を切り取られること、像をつくること、病の流行など、物語の諸要件が2度ずつ繰り返されるという構造も見出せる[18]。
『桜の森の満開の下』に関しては、高貴で残酷な女と、そのために命をすり減らす下賎な男という図式においても共通している。このような話型は『タンホイザー』のような西洋の説話文学や、泉鏡花の『高野聖』、谷崎潤一郎の諸作品にも見られると七北数人は指摘している[19]。また、3人の匠が腕を競い合う本作の前半部の物語については、かぐや姫伝説(『竹取物語』)のパロディになっているという指摘もあり、夜長姫もかぐや姫と同様、生まれながらにして光輝いたとされ、多くの男性のあこがれの的として描かれている。3人の匠が3年かけて腕を競うというのは、『竹取物語』において、3寸のかぐや姫が3月で成人し、3日の酒宴を執り行なうというように、3がモチーフとして頻出する「三の法則」と合致すると鬼頭七美は考察している[20]。
奥野健男は『坂口安吾』(1976年)において、無邪気さと残酷さを併せ持つ夜長姫のイメージが『木々の精、谷の精』(1939年)、『篠笹の蔭の顔』(1940年)、『露の答』(1945年)に描かれた女性像に連なるものとしている[注釈 6]。浅子逸男は『木々の精、谷の精』の主要人物3人の配置が、『夜長姫と耳男』の耳男、夜長姫、江奈古のそれに類似していることを指摘し[22]、『木々の精、谷の精』には、語り手の男性・修吉と二人の女性、妙(たえ)と葛子(かつらこ)が登場するが、修吉は「古(いにしえ)の希臘(ギリシャ)の女」のような妙の美しさを認めながらも、彼が惹かれるのは天真爛漫で非現実的な美しさをもつ葛子のほうであり、それは耳男が江奈古には惹かれず、夜長姫に心を動かされるのと同様だとし、『夜長姫と耳男』の最終部で耳男が抱く、〈このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界は持たないのだ〉という考えもまた、葛子を救うためには彼女を殺すか死なすかしなければならないという、修吉の想念に原型が見られるとしつつ、ただし夜長姫には葛子が持っているような、いまにもこわれてしまいそうな脆さはないと解説している[23]。
注釈
- ^ 書籍にして約50-60頁の長さの物語である。講談社文芸文庫(1997年)、岩波文庫(2009年)でそれぞれ53、57頁。
- ^ この欄には他に源氏鶏太の『勇敢な社員』、豊島与志雄『擬態』、フランツ・カフカ『変身』(高橋義孝訳)が掲載された[2]。
- ^ 「飛騨の顔」の方は『別冊文藝春秋』に掲載された。
- ^ 伝行基作とされているものだが、安吾は、これは嘘で「ヒダのタクミに決まっています」と言っている[5]。
- ^ ただし浅子逸男は、奈良時代末期であれば作中の「タクミ」たちのこうした名は十分ありえたと論じている[15]。また「江奈古」は胞(えな)に由来する名ではないかという指摘もあるが、浅子はこれも高山に近い大野灘郷の江名子村の名から取られた可能性を指摘している[15]。
- ^ 奥野はその女性像の根底に安吾の親友であった長島萃の妹のイメージを見てとっており[1]、また安吾作品に登場するこのような「残酷で無垢」な女性像の前では、後述の矢田津世子も「影が薄いのではないか。いや矢田津世子の中に、彼女と共通するイメージを見出していたのであろうか」と自問している[21]。
- ^ 精神分析を援用とした解釈としてはほかに、ユング心理学に依拠しながら、この物語を耳男の自身の無意識の統合と自己実現までの過程と読み解いた長田光展の論考がある[27]。
- ^ これらに対し加藤達彦は、むしろ『夜長姫と耳男』などの「小説を通じて事後的に見出されてくる境地」こそが安吾の「ふるさと」そのものではないかとし、そのうえで本作に表れた「視線」の対決・対峙のモチーフに着目しつつ、後述するように安吾的な「人間」の回復の主題を見出す読解を行っている[30]。
- ^ 芸術家の主題とは強く結び付けられていないが、『文学のふるさと』と結びつけて論じているものとしては、疫病で死んでゆく人々を歓喜して眺める夜長姫は反転した(ペローの)赤ずきん、つまり「自然の化身」であるとし、その姫を刺し殺すことは、「ふるさと殺し」「母殺し」であるとした井口時男の論考などがある[31]。
出典
- ^ a b c d 奥野 (1996)、311頁。
- ^ a b c 関口 (1999), 563頁。
- ^ a b 川村 (1989)、424頁。
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- ^ 坂口 (2008)
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- ^ 坂口 (1989)、319頁。
- ^ a b 浅子 (1993)、142頁。
- ^ a b c 角田 (1985)、151頁。
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- ^ 柴田 (2001)、45頁。
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- ^ a b 浅子 (1993)、143頁。
- ^ 角田 (1985)、153-154頁。
- ^ 柴田 (2001)、45-49頁。
- ^ 美濃部 (2005)、29頁。
- ^ a b 七北 (2008)、406頁。
- ^ 鬼頭 (2002)、 71頁。
- ^ 奥野 (1996)、153-154頁。
- ^ 浅子 (1993)、144頁。
- ^ 浅子 (1993)、145頁。
- ^ 加藤 (2001)、64-65頁。
- ^ 坂口 (1996a)
- ^ 「坂口安吾 作品ガイド100」(『KAWADE夢ムック文藝別冊 坂口安吾―風と光と戦争と』)(河出書房新社、2013年)
- ^ 長田 (1985)
- ^ 由良 (1979)、200-203頁。
- ^ 高桑 (1997)、194-199頁。
- ^ 加藤 (2001)、68-69頁。
- ^ 井口 (2008)
- ^ 奥野(1996)、312頁。
- ^ 角田 (1985)、157-160頁。
- ^ 石川 (2000)、69頁。
- ^ 石川 (2000)、72頁。
- ^ 美濃部 (2005)、31-33頁。
- ^ 柴田 (2001)、46-51頁。
- ^ 高桑 (1997)、202-205頁。
- ^ 鬼頭 (2002)、64-65頁。
- ^ 鬼頭 (2002)、74頁。
- ^ 青木 (2008)、204頁。
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- ^ 加藤 (2001)、71-72頁。
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- ^ 関口 (1999)、563頁-566頁。
- ^ 鬼頭 (2002)、64頁。
- ^ 関口 (1999)、566頁。
- ^ 贋作・桜の森の満開の下 新国立劇場、2010年6月16日閲覧。
- ^ “間宮芳生 シアトリカル・ピース”. GENUINE. 2013年7月25日閲覧。
- ^ “コンサートホールATM 講演情報”. 水戸芸術館. 2013年7月25日閲覧。
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