多段式空母 欠点

多段式空母

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/10 01:28 UTC 版)

欠点

実際には下段、中段の飛行甲板は役にたたず、発進にはほとんど用いられなかった。「赤城」の下段飛行甲板は長さ56.7m、中段はわずか15mであった。この滑走台レベルの長さでは、改装当初に用いられていた軽量小型の複葉機ならばともかく、1935年以降に主力となった全金属製で大型化した単葉機では、とても離着艦に足るものではなかった。

「赤城」の中段甲板は砲兵装の設置場所、または飛行機の整備に用いられる程度の使い方しかなされなかった。「フューリアス」の下段甲板も戦時中には対空兵装を装備し、発着は上段飛行甲板のみで行われていた。

さらに飛行甲板を上下に分散することで格納庫の容量が少なくなり、また上段の甲板の長さも短くなった。当時の航空機の大型化と重量増から着陸速度や滑走距離も長くなっており、これも運用上好ましくない傾向であった。

また、航空機の進歩とそれに伴う航続距離の延長・作戦行動半径の拡大により敵水上艦隊との交戦の危険性は減少し、敵航空攻撃に対する対空火器増設の必要性が高まったことで、20cm主砲も無用の長物となった。

衰退

多段式空母は利点とともに欠点もあり、航空機の性能向上に伴う滑走距離の増大により欠点が非常に大きな問題となってきた。これらから日本海軍では多段式空母を順次一段の全通飛行甲板の形式へと改めていった。「加賀」は1934年に大改装に着手したが、その際の軍令部の要求には、搭載機数の増加、飛行甲板を最大限に延長すること、が含まれていた。1935年12月に完成したこの改装により飛行甲板長は171.2mから248mへ伸ばされ、搭載機数は60機から補用含め90機に増加した。「赤城」も1935年から1938年にかけて同様の大改装を行い、一段の全通飛行甲板となった。これらの改装の結果、太平洋戦争開戦時には、日本に多段式甲板の空母は既に存在していなかった。

イギリス海軍では「フューリアス」、「カレイジャス」、「グローリアス」が二段式飛行甲板のまま第二次世界大戦に投入されたが、前述のように下段には対空兵装が装備され、飛行甲板としては全く用いられることがなかった。

歴史上実在した多段式空母は、上記の5隻のみである。

現在では発着艦を同時にこなす方法として、アングルド・デッキを用い、多段式の飛行甲板は使用されていない。

参考文献

  • 佐藤和正 『空母入門』 光人社NF文庫、2005年。ISBN 4-7698-2174-3
  • 雑誌「」編集部 編 『日本海軍艦艇写真集5 空母赤城・加賀・鳳翔・龍驤』 光人社、1996年。ISBN 4-7698-0775-9
  • レッカ社編 『世界の「戦艦・空母」がよくわかる本』 PHP文庫、2009年。ISBN 978-4-569-67164-2



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