周易
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宋易と風水
漢代から宋代にかけての儒易の系譜は経典儒と呼ばれる。四書五経を重んじ、礼儀を第一に尊ぶ規範としての学問であり、『易経』は占卜の書とはいっても、もっぱら儒教の倫理を説き、儒家としての正しい処世を求めるため、経文の解釈はもっぱら十翼一辺倒となり、発展も見られなかった。
しかし、宋代から明代にかけて、儒易の系譜は、横渠学・朱子学・陽明学へと連なる、理学という学問体系を形成した。
まず、北宋時代に入ると、易卦を数理的に解釈する、象数易というものが誕生した。象数家の系譜は、円図・方図を作ったとされる陳摶(陳希夷)に始まり、种放・穆修・李之才(李挺之)、そして『皇極経世』を編んだ邵雍(邵康節)などの人脈を生んだ。
円図・方図は、現代に続く風水の系譜のなかでは主流となっている元合派、つまり三元派や三合派と呼ばれるグループの理論的な拠り所である。[要出典]
宋代の経典儒としては、『太極図説』を編み「後天優勢、以学為志」を説いた周敦頤(周濂渓、1017-1073)、「気即理」を説き「横渠学」を立てた張載(張横渠、1020-1077)、そして「性即理」「天理」を説いた程顥(程明道、1032-1085)と「心即理」「理気二元」を説いた程頤(程伊川、1033-1107)の兄弟が「理」について異論を唱え、それぞれの学派を形成する。
程顥の系統は、南宋の朱熹(朱元晦、1130-1200)へと引き継がれ「朱子学」となる[要検証 ]。
程頤の系統は、南宋の陸九淵(陸象山、1139-1193)へと引き継がれ、さらに明の王守仁(王陽明、1472-1529)によって「陽明学」が打ち立てられ、さらに王畿(王龍渓、1498-1583)、李贄(李卓吾、1527-1602)と続く[要検証 ]。
宋・明の「理学」にあっては、「気」と「理」のあり方がもっとも問われるところである。「気」とは自然、つまり先天的に存在する数理のようなロジックであり、経験則と言い換えることもでき、「格物致知」という「大学」以来の理念によって現出される。しかし「理」とは倫理であり、もともと人間に生まれつき備わるものなのか、学ぶことによって後天的に得るものなのか、あるいは行いによって初めて真実となるのか、などが争われたのである。
宋の象数易以前は、風水を観察する者にとって「気」を読むこと、つまり経験則だけが頼りであり、「三式」などの理論も、もっぱら「記号類型」という経験則であり、「理」と言えるような根拠は持ち得なかったのである。 つまり現代の風水信奉者が「非科学的」といって軽蔑されることに耐えられなくなって、磁気地理学などといった「疑似科学」に腐心するように、当時の風水師たちが「理気」という言葉に陶酔していったのも無理からぬことではある。しかしそれは「腐儒」という堕落と隣り合わせであったことも否めなかった。
時間や方位など、あらゆる物事に易卦や干支という記号をつけて分類した上で、共通するものから規則性を見出し、次に来るものを予知する、という中国式記号類型学の手法は、「格物致知」という、二千年来中国の学問を支え続けた理念に合致するだけではない。そのような経験を持たない西洋科学から見て否定も肯定もできないし、少なくとも「反科学」とは言えない分野である。
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