久坂玄瑞
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坂本龍馬に託した書状
平成22年(2010年)4月12日、NHK大河ドラマ『龍馬伝』の放送で坂本龍馬はじめ維新の志士らへの関心が高まっている中、土佐山内家宝物資料館が、久坂玄瑞が文久2年(1862年)、萩を訪れた龍馬に託した武市半平太宛ての書状を、報道陣に公開した。
その書状の内容はおおよそ以下の通り。玄瑞の「諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事」「尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」という考えが、龍馬の脱藩に影響したと言われている[43] [44](坂本龍馬は2月末に土佐に戻り3月24日に脱藩した)。
「草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き」とは吉田松陰の唱えた「草莽崛起論」が基になっている。
その後はいかがなせられます候や、こないだは山本、大石君ご来訪下せられ、何ら風景もこれ無く、お気の毒千萬存じ奉り候。最早、ご帰国ならんと御察しつかまつり候。この度、坂本君お出むきあらせられ、腹蔵無くご談合つかまつり候頃、くわしくはお聞取り願い奉り候。結局、諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。失敬ながら、尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず。両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、萬乗の君のご叡慮相貫き申さずしては、神州に衣食する甲斐はこれ無きかと、友人共申し居り候事に御座候。ついては坂本君に御申談つかまつり候事ども、あつく御熟考下さるべく候。もっとも沈察を尊ぶは申すまでもこれ無く候。樺山三円よりは此内書状来る、彼藩も大に振い申し候よし。友人を一両のうちにつかわすつもりに御座候。様子次第、尊藩へも差出し申すべくと存じ申し候。何も坂本様より御承知ならんと草々乱筆推読、これ祈り敬白。
- ^ 『花冠の志士-久坂玄瑞伝-』 p.5
- ^ 武田『久坂玄瑞』 p.14
- ^ 武田『久坂玄瑞』 p.17
- ^ 『花冠の志士-久坂玄瑞伝-』 p.16
- ^ 立石『久坂玄瑞』 p.44
- ^ 立石『久坂玄瑞』 p.46
- ^ 武田『久坂玄瑞』 p.30
- ^ 武田『久坂玄瑞』 p.32
- ^ 武田『久坂玄瑞』 pp.33-35
- ^ 武田『久坂玄瑞』 p.35
- ^ 武田『久坂玄瑞』 pp.37-38
- ^ 『花冠の志士-久坂玄瑞伝-』 pp.36-37
- ^ 立石『久坂玄瑞』 pp.76-77
- ^ 武田『久坂玄瑞』 pp.46-47
- ^ 武田『久坂玄瑞』 pp.163-175
- ^ 武田『久坂玄瑞』 pp.196-199
- ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』 p.165
- ^ 『日本の思想家50 高杉晋作 久坂玄瑞』 pp.237-244
- ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』 pp.165-171
- ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』 pp.166-167
- ^ 『花冠の志士-久坂玄瑞伝-』 pp.168-169
- ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』 p.170
- ^ 長文連『奇兵隊』 p.56
- ^ 長文連『奇兵隊』 pp.15-16
- ^ 長文連『奇兵隊』 pp.83-84
- ^ 長文連『奇兵隊』 p.110
- ^ 長文連『奇兵隊』 p.91
- ^ 長文連『奇兵隊』 pp.85-88,102-104
- ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』 p.175
- ^ 武田『久坂玄瑞』 p.328
- ^ 『思想からみた明治維新―「明治維新」の哲学』 p.176
- ^ 「文妹の久坂氏へ嫁ぐに贈る言」安政4年(1857年)12月5日
- ^ 『松陰とその門下』
- ^ 「久坂玄瑞の壮行を祝して」安政5年(1858年)2月
- ^ 「高杉晋作の上京にあたっての壮行の辞」安政5年(1858年)7月
- ^ 「久坂實甫遺稿」
- ^ 頭山満『英雄を語る』時代社、1942年
- ^ 「明治維新後、木戸孝允に対して」
- ^ 頭山満『英雄を語る』
- ^ 「時勢論」
- ^ 『吉田松陰全集 第12巻』マツノ書店版
- ^ a b 『勤王芸者 維新情史』
- ^ 飛鳥井『坂本龍馬』 140-141ページ、147-148ページ
- ^ 『幕末・維新』 105ページ
- ^ 『山口県立山口博物館研究報告 第43号』 2017年3月30日、p.52。
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