ヴィジャヤナガル王国 サンガマ朝

ヴィジャヤナガル王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/28 10:04 UTC 版)

サンガマ朝

ヴィジャヤナガル王国の建国

トゥグルク朝の最大版図
ヴィディヤーラニヤと面会するハリハラとブッカ

14世紀以降、デリー・スルターン朝によって、デカン南インド各地にあったヒンドゥー王朝は次々と滅ぼされ、1317年ヤーダヴァ朝ハルジー朝に滅ぼされ、1323年パーンディヤ朝カーカティーヤ朝トゥグルク朝に滅ぼされた[2]

有力な説では、ヴィジャヤナガル王国の建国者であるハリハラブッカの兄弟は、デカンのカーカティーヤ朝(あるいは南インドのホイサラ朝)に仕えていたとされ[3]、1323年にトゥグルク朝の遠征軍が両王朝を攻めており、彼ら二人を捕虜にした。のち、2人はデリーに連行され、イスラーム教に改宗して、トゥグルク朝の君主ムハンマド・ビン・トゥグルクに仕えたとされる[3]

1334年以降、ムハンマド・ビン・トゥグルクの失政により各地で反乱が起き、同年には南インドのタミル地方で地方長官が独立して、マドゥライ・スルターン朝が成立するなど、南インドも不穏な状態となった。

当時、ムハンマド・ビン・トゥグルクはハリハラとブッカを南インドのカルナータカ地方に派遣してその統治に当たらせていたが、彼らもまたヒンドゥー勢力を結集してトゥグルク朝から独立を考えるようになった[3]

こうして、1336年にハリハラとブッカはトゥグルク朝から独立を宣言し、トゥンガバドラー川の南岸の都市ヴィジャヤナガル(勝利の都)を都に、ヴィジャヤナガル王国を建国した。また、彼らはこの地方の宗教指導者であったヴィディヤーラニヤにより、イスラーム教からヒンドゥー教へと改宗している[3]

そして、この第1王朝はハリハラとブッカの父サンガマの名を取って、サンガマ朝と名づけられ、初代の王には兄ハリハラがハリハラ1世として即位した。

周辺勢力との抗争

14世紀後半頃のヴィジャヤナガル王国とバフマニー朝
ヴィジャヤナガル王国の版図(15世紀)
ハンピにあるヒンドゥー寺院のヴィルーパークシャ寺院。この寺院は7世紀から前期チャールキヤ朝のもと建築がすすめられ、14世紀後半にヴィジャヤナガル王国の支配下にはいっても建築された。

1342年、ホイサラ朝の王バッラーラ3世がマドゥライ・スルターン朝との戦いで命を落とすと、ヴィジャヤナガル王国はその領土に侵攻し、1346年にホイサラ朝を滅ぼして王国の版図を広げた[3]

一方で、翌1347年、デカン地方にバフマニー朝が建国されると、トゥンガバドラー川とクリシュナ川の両流域に挟まれたいわゆるライチュール地方の支配権、すなわち交易利権をめぐって両王朝は抗争することになった[4]

1356年、ブッカは兄ハリハラ1世を継いでブッカ1世となり、ライチュール地方などの支配をめぐり、1358年から本格的にバフマニー朝との領土争いを繰り広げられた。というのは、両国の国境地帯のトゥンガバドラー川クリシュナ川流域であるライチュール地方は経済的に豊かな土地として知られ、クリシュナ川とゴーダーヴァリ川の下流平野は、たいへん肥沃な土地であるうえに数多くの港があり、その港を通して外国貿易が取引されていたため、領有した王朝はその利益で潤うからだった。

しかし、この抗争では、両国は決定的な勝利をおさめることができず、無差別虐殺や子どもの奴隷売買が行なわれたり、経済的にも疲弊したため、前述のような残虐な行為は行わない、両国の国境は当初のままとする、という協定が結ばれた。

ブッカ1世は1377年まで統治し、ヴィジャヤナガル王国の版図拡大のため南方遠征を行い、1370年には息子の一人クマーラ・カンパナがマドゥライ・スルターン朝を制圧している[5]

ブッカ1世の息子ハリハラ2世のとき、1378年にマドゥライ・スルターン朝を併合し、レッディ王国の支配するアーンドラ地方の大部分を領土に加え、領土の拡大に成功している[5]

1398年にはバフマニー朝を攻め、クリシュナ川およびゴーダーヴァリ川両下流域の大部分を併合したものの、それ以上北方へ進出できなかった。だが、マラバール海岸地方で、ゴアをバフマニー朝から奪うことに成功し、またスリランカ北方にも遠征軍を送っている。

ハリハラ2世の息子デーヴァ・ラーヤ1世のとき、1414年にバフマニー朝の王フィールーズ・シャー・バフマニーとの間でトゥンガバトラー流域をめぐる抗争に敗れ、首都ヴィジャヤナガル付近まで進出された。ヴィジャヤナガル王国は講和を結び、多額の賠償金と真珠や象を支払わなければならず、そして自分の娘をフィールーズ・シャー・バフマニーと結婚させることにし、結婚式には自ら首都ヴィジャヤナガルから出迎えた。

しかし、1422年、孫のデーヴァ・ラーヤ2世が即位すると、軍制改革を推し進め、ヴィジャヤナガル王国の軍隊にムスリムを加えて、ヒンドゥーの兵や将校に弓術を教えさせた。ペルシャ出身の歴史家フィリシュタによると、デーヴァ・ラーヤ2世は8万の騎兵、20万の歩兵、弓術に優れた6万人のヒンドゥー兵を集めたという(これは、バフマニー軍が丈夫な馬を持ち、優れた弓兵の大部隊をもっていることにならったもので、またその対抗策であった)。

この軍制改革により軍は強化され、ヴィジャヤナガル王国は逆に攻勢を強め、バフマニー朝の都グルバルガ付近まで進出した。そのため、1425年から1426年にかけて、バフマニー朝の王アフマド・シャー1世は、バフマニー朝の首都をグルバルガからビーダルへと遷都しなければならなかった。

しかし、1443年のライチュール地方への遠征で、バフマニー朝と3回の激戦を戦ったが両国共に大きな戦果を収められず、国境線はそのまま維持された。

デーヴァ・ラーヤ2世は、ムスリムに先の軍制改革で登用や国内でモスクの建設を許し、ムスリム王朝であるバフマニー朝とは和睦して婚姻関係や貢納で平和を保ち、 ヴィジャヤナガル王国はヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が共存できる宗教寛容な国となり、ヴィジャヤナガルの王は称号として「ヒンドゥーの王にしてスルターン」を名乗った者がいる。

さらに、デーヴァ・ラーヤ2世は、西アジアとの対外交易も積極的に行い、イランなどからは使節も訪れている。ペルシャ人旅行家、アブドゥル・ラッザークの残した当時の記録によると、

「ヴィジャヤナガル王は、東はオリッサ地方から、南はセイロン、西はマラバールにまで及ぶ版図と300の港をもち、それぞれがカリカットに匹敵するものだ。また、この土地の大部分はよく耕されていて、たいへん肥沃だ。この国の軍隊は110万人におよぶ」

としている。少々誇張があるが、この地を訪れた旅行家たちが一致して述べているのは、ヴィジャヤナガル王国の国内は、都市でも農村でも人口が密集していたということである。


  1. ^ ただし、アーラヴィードゥ朝は、ペヌコンダ、チャンドラギリ、ヴェールールに首都をおいたために除く場合もある
  2. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.124
  3. ^ a b c d e 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.149
  4. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、pp.150-151
  5. ^ a b c 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.150
  6. ^ a b c d e f g h 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.151
  7. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.152
  8. ^ a b c d 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.153
  9. ^ a b c d e f g 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.154
  10. ^ a b c 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.155
  11. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.36





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