ヴィジャヤナガル王国
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サンガマ朝
ヴィジャヤナガル王国の建国
14世紀以降、デリー・スルターン朝によって、デカンや南インド各地にあったヒンドゥー王朝は次々と滅ぼされ、1317年ヤーダヴァ朝がハルジー朝に滅ぼされ、1323年にパーンディヤ朝とカーカティーヤ朝がトゥグルク朝に滅ぼされた[2]。
有力な説では、ヴィジャヤナガル王国の建国者であるハリハラとブッカの兄弟は、デカンのカーカティーヤ朝(あるいは南インドのホイサラ朝)に仕えていたとされ[3]、1323年にトゥグルク朝の遠征軍が両王朝を攻めており、彼ら二人を捕虜にした。のち、2人はデリーに連行され、イスラーム教に改宗して、トゥグルク朝の君主ムハンマド・ビン・トゥグルクに仕えたとされる[3]。
1334年以降、ムハンマド・ビン・トゥグルクの失政により各地で反乱が起き、同年には南インドのタミル地方で地方長官が独立して、マドゥライ・スルターン朝が成立するなど、南インドも不穏な状態となった。
当時、ムハンマド・ビン・トゥグルクはハリハラとブッカを南インドのカルナータカ地方に派遣してその統治に当たらせていたが、彼らもまたヒンドゥー勢力を結集してトゥグルク朝から独立を考えるようになった[3]。
こうして、1336年にハリハラとブッカはトゥグルク朝から独立を宣言し、トゥンガバドラー川の南岸の都市ヴィジャヤナガル(勝利の都)を都に、ヴィジャヤナガル王国を建国した。また、彼らはこの地方の宗教指導者であったヴィディヤーラニヤにより、イスラーム教からヒンドゥー教へと改宗している[3]。
そして、この第1王朝はハリハラとブッカの父サンガマの名を取って、サンガマ朝と名づけられ、初代の王には兄ハリハラがハリハラ1世として即位した。
周辺勢力との抗争
1342年、ホイサラ朝の王バッラーラ3世がマドゥライ・スルターン朝との戦いで命を落とすと、ヴィジャヤナガル王国はその領土に侵攻し、1346年にホイサラ朝を滅ぼして王国の版図を広げた[3]。
一方で、翌1347年、デカン地方にバフマニー朝が建国されると、トゥンガバドラー川とクリシュナ川の両流域に挟まれたいわゆるライチュール地方の支配権、すなわち交易利権をめぐって両王朝は抗争することになった[4]。
1356年、ブッカは兄ハリハラ1世を継いでブッカ1世となり、ライチュール地方などの支配をめぐり、1358年から本格的にバフマニー朝との領土争いを繰り広げられた。というのは、両国の国境地帯のトゥンガバドラー川とクリシュナ川流域であるライチュール地方は経済的に豊かな土地として知られ、クリシュナ川とゴーダーヴァリ川の下流平野は、たいへん肥沃な土地であるうえに数多くの港があり、その港を通して外国貿易が取引されていたため、領有した王朝はその利益で潤うからだった。
しかし、この抗争では、両国は決定的な勝利をおさめることができず、無差別虐殺や子どもの奴隷売買が行なわれたり、経済的にも疲弊したため、前述のような残虐な行為は行わない、両国の国境は当初のままとする、という協定が結ばれた。
ブッカ1世は1377年まで統治し、ヴィジャヤナガル王国の版図拡大のため南方遠征を行い、1370年には息子の一人クマーラ・カンパナがマドゥライ・スルターン朝を制圧している[5]。
ブッカ1世の息子ハリハラ2世のとき、1378年にマドゥライ・スルターン朝を併合し、レッディ王国の支配するアーンドラ地方の大部分を領土に加え、領土の拡大に成功している[5]。
1398年にはバフマニー朝を攻め、クリシュナ川およびゴーダーヴァリ川両下流域の大部分を併合したものの、それ以上北方へ進出できなかった。だが、マラバール海岸地方で、ゴアをバフマニー朝から奪うことに成功し、またスリランカ北方にも遠征軍を送っている。
ハリハラ2世の息子デーヴァ・ラーヤ1世のとき、1414年にバフマニー朝の王フィールーズ・シャー・バフマニーとの間でトゥンガバトラー流域をめぐる抗争に敗れ、首都ヴィジャヤナガル付近まで進出された。ヴィジャヤナガル王国は講和を結び、多額の賠償金と真珠や象を支払わなければならず、そして自分の娘をフィールーズ・シャー・バフマニーと結婚させることにし、結婚式には自ら首都ヴィジャヤナガルから出迎えた。
しかし、1422年、孫のデーヴァ・ラーヤ2世が即位すると、軍制改革を推し進め、ヴィジャヤナガル王国の軍隊にムスリムを加えて、ヒンドゥーの兵や将校に弓術を教えさせた。ペルシャ出身の歴史家フィリシュタによると、デーヴァ・ラーヤ2世は8万の騎兵、20万の歩兵、弓術に優れた6万人のヒンドゥー兵を集めたという(これは、バフマニー軍が丈夫な馬を持ち、優れた弓兵の大部隊をもっていることにならったもので、またその対抗策であった)。
この軍制改革により軍は強化され、ヴィジャヤナガル王国は逆に攻勢を強め、バフマニー朝の都グルバルガ付近まで進出した。そのため、1425年から1426年にかけて、バフマニー朝の王アフマド・シャー1世は、バフマニー朝の首都をグルバルガからビーダルへと遷都しなければならなかった。
しかし、1443年のライチュール地方への遠征で、バフマニー朝と3回の激戦を戦ったが両国共に大きな戦果を収められず、国境線はそのまま維持された。
デーヴァ・ラーヤ2世は、ムスリムに先の軍制改革で登用や国内でモスクの建設を許し、ムスリム王朝であるバフマニー朝とは和睦して婚姻関係や貢納で平和を保ち、 ヴィジャヤナガル王国はヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が共存できる宗教寛容な国となり、ヴィジャヤナガルの王は称号として「ヒンドゥーの王にしてスルターン」を名乗った者がいる。
さらに、デーヴァ・ラーヤ2世は、西アジアとの対外交易も積極的に行い、イランなどからは使節も訪れている。ペルシャ人旅行家、アブドゥル・ラッザークの残した当時の記録によると、
「 | 「ヴィジャヤナガル王は、東はオリッサ地方から、南はセイロン、西はマラバールにまで及ぶ版図と300の港をもち、それぞれがカリカットに匹敵するものだ。また、この土地の大部分はよく耕されていて、たいへん肥沃だ。この国の軍隊は110万人におよぶ」 | 」 |
としている。少々誇張があるが、この地を訪れた旅行家たちが一致して述べているのは、ヴィジャヤナガル王国の国内は、都市でも農村でも人口が密集していたということである。
- ^ ただし、アーラヴィードゥ朝は、ペヌコンダ、チャンドラギリ、ヴェールールに首都をおいたために除く場合もある
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.124
- ^ a b c d e 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.149
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、pp.150-151
- ^ a b c 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.150
- ^ a b c d e f g h 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.151
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.152
- ^ a b c d 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.153
- ^ a b c d e f g 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.154
- ^ a b c 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.155
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.36
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