メキシコの歴史
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メキシコ独立戦争(1810年-1821年)
スペインによる支配は300年続いたが、18世紀後半のボルボン改革の後にメキシコも啓蒙の時代を迎えると、アメリカ独立戦争やフランス革命に影響された土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。1794年にはフアン・ゲレーロの陰謀が、1799年にはマチェーテの陰謀が発覚し、こうしたクリオージョによる独立運動は厳しく弾圧された。
1808年にフランス帝国がスペインに侵攻し、ナポレオン・ボナパルトは兄のジョゼフをホセ1世としてスペイン王位に就けると、それに反発する民衆蜂起を契機として、スペイン独立戦争が始まった。イスパノアメリカ植民地は同王への忠誠を拒否し、1809年にはキトとラパスで、1810年にはカラカスやブエノスアイレス、サンティアゴ・デ・チレ、サンタフェ・デ・ボゴタで自治を求めるクリオージョがフェルナンド7世への忠誠を唱えて植民地政府から行政権を奪取しようと反乱を起こした。メヒコ市でも1808年8月にクリオージョ達が副王イトゥリガライを恫喝し、自治を求めて議会を開いたが、これはガチュピンのクーデターによって破綻した。
このため、1810年9月16日にミゲル・イダルゴ司祭によってスペイン打倒の「ドローレスの叫び」が発表され、メキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。当初イダルゴの反乱は反スペイン人反乱だったが、インディオ、メスティーソを巻き込んだ大衆反乱となるうちにクリオージョを含んだ富裕な白人とそれ以外の階級闘争となり、クリオージョがイダルゴから離反した。このため8万人をも動員しながらメヒコ市の攻略に失敗し、1811年1月にイダルゴは捕らえられ、7月に反乱を指導したことを悔いて処刑された。
しかし、イダルゴの部下だったメスティーソの神父、ホセ・マリア・モレーロスは民衆を率いて戦いを継続した。モレーロスはアカプルコやオアハカなどの主要都市を攻略して基盤を築き、1813年11月にチルパンシンゴの議会でメキシコ共和国の独立を宣言し、1814年10月にはアパチンガン憲法を制定したが、クリオージョ富裕層の協力を得ることが出来なかったためにこれは挫折した。ナポレオン戦争が終結するとスペインはイスパノアメリカの反乱の鎮圧に本腰を入れだしたために、スペイン軍のアグスティン・デ・イトゥルビデによってモレーロスは敗れ、1815年11月に処刑された。以後は当初の指導者たちはほとんど処刑され、以後独立運動はグアダルーペ・ビクトリアやビセンテ・ゲレーロなどが率いる山間部での散発的なゲリラ部隊のみとなった。
遥か南で解放者シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン・マルティンが諸国を解放する中、黒人、インディオ、メスティーソらの下層民衆による反乱を恐れるペルー、アルト・ペルー、キューバ、プエルトリコ、中央アメリカ、メキシコのクリオージョはスペインの絶対王政を維持しようとしていたが、1820年にスペイン本国で自由主義的なリエゴ革命が勃発すると、王党派・保守派クリオージョは本国で採択された自由主義憲法に反発してスペインへの抵抗を叫ぶようになった。この時流をうまくつかんだクリオーリョの軍人アグスティン・デ・イトゥルビデがメスティーソやインディオを含む独立派ゲリラ軍と、保守的クリオーリョらを、「スペインへの反発と独立志向」という共通点でまとめることに成功し、副王以下の植民地軍は屈服した。1821年にはヌエバ・エスパーニャ副王領は廃止され、メキシコは独立を達成した。
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