ホルヘ・ポサダ 経歴

ホルヘ・ポサダ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/09 10:07 UTC 版)

経歴

1970年、プエルトリコのサンフアン・サントゥルセ地区で生まれる。父親はロッキーズの中南米担当スカウト、叔父はドジャース傘下のマイナーリーグで打撃コーチを務めるなど野球一家で育つ。後に地元大学に進学し、当時はバスケットボール、バレーボールや陸上競技の短距離走など野球以外の競技にも打ち込んだ。

1990年ドラフト24巡目でヤンキースから指名され入団。マイナー時代は二塁、三塁、外野とさまざまなポジションをこなし、1995年のメジャーデビューと同時に捕手に定着した。デビュー2年目まではほとんど出場機会がなかったが、3年目の1997年には60試合に出場し、打率.250・6本塁打・25打点と徐々に頭角を表す。

1998年はシーズンを通して出場し、打率.268・17本塁打・63打点を記録。チームのワールドシリーズ制覇に貢献した。翌1999年は17個の捕逸を記録しレギュラー定着に課題を残したが、チームは2年連続のワールドシリーズ制覇を果たした。

2000年、第二捕手であったジョー・ジラルディシカゴ・カブスに移籍すると、正捕手の座を不動のものとする。打撃力も向上し、チームの主軸打者としても活躍、打率.287・28本塁打・87打点を記録した。ニューヨーク・メッツとのサブウェイ・シリーズとなった同年のワールドシリーズでは好リードを披露。チームを優勝に導いた。

2003年には自己最多となる30本塁打・101打点を記録し、MVPの投票ではアレックス・ロドリゲスカルロス・デルガドに次ぐ3位。

2004年は5月12日のエンゼルス戦で送球が顔面に直撃し、鼻骨を骨折。4試合を欠場した後、出場を続けたが、このけがを境に好調な打撃が不調に[2]。7月11日のデビルレイズ戦で足首をねんざし、医師から出場できる状態ではないと言われたが、翌戦を先発出場[2]。最終的には、打率.272・21本塁打・81打点と前年より成績が低下し、シルバースラッガー賞オールスターの連続受賞・選出が4年で途切れた。

2007年アメリカンリーグ4位の打率.338という高打率を記録し、4年ぶりにシルバースラッガー賞も受賞したが、チームは3年連続で地区シリーズ敗退となった。シーズン終了後の11月29日にはヤンキースと4年総額5240万ドル(当時のレートで約58億円)で再契約した[3]

2008年は4月28日に右肩痛でキャリア初の故障者リスト入り。6月に復帰したが、万全でない右肩の状態は送球や捕球に悪影響を及ぼし[4]ホセ・モリーナが代わりに先発マスクをかぶる機会が増えた[5]。ポサダは指名打者や一塁手としての出場を模索したが、7月26日にゼイビア・ネイディがトレードで加入したことに伴い、「チームの助けになることを誇りを持ってきた。しかしゼイビアが加わったことで復帰への重圧は軽減された」と表明[5]。7月20日に右肩関節唇損傷で再び故障者リスト入りした後、7月30日に手術を受け残りのシーズンは出場しなかった[6]

2009年、9月1日のオリオールズ戦で、2回表にボールカウントを間違えて4ボールになったにもかかわらず一塁に向かわなかったために審判に指摘されてフォアボールで出塁し、さらに同試合の5回表にはストライクカウントを間違え、2ストライクの時点でベンチに戻りかけるという珍プレーを見せた(しかし、戻ったその打席でホームランを放った)[7]。9月16日のブルージェイズ戦では相手投手のジェシー・カールソン乱闘騒ぎを起こし、カールソンと共に3試合の出場停止処分を受けた[8]。そして2年ぶりとなるプレーオフ進出に貢献した。

2010年6月にはヤンキースの選手としては1937年ビル・ディッキー以来となる二試合連続満塁本塁打を放つ。また、7月23日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で通算1000打点を記録した。

2011年はポサダの守備率低下にともないオフにロサンゼルス・ドジャースからラッセル・マーティンが加入。ポサダは指名打者一塁手として出場させる方針がとられ、捕手としての出場は1試合にとどまった[9]。8月25日のオークランド・アスレチックス戦では大差のついた9回にロビンソン・カノーに代わり二塁手として出場。最後の打者をアウトにする際、一塁への力強い送球がショートバウンドし、守っていたニック・スウィッシャーを苦笑させた。シーズン終了後、自由契約(FA:フリーエージェント)となった。

2012年1月24日、現役引退会見を行った。

ポサダの背番号「20」。
ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番2015年指定。

引退から3年後の2015年2月16日に、古巣ヤンキースはポサダの背番号『20』をかつてのチームメイトであるアンディ・ペティットの『46』、バーニー・ウィリアムスの『51』とともに永久欠番に指定することを発表し、同年8月22日に欠番表彰式が行われた。


  1. ^ ヤンキース、黄金時代を支えた3選手の背番号を永久欠番に”. AFP=時事 (2015年2月17日). 2015年2月17日閲覧。
  2. ^ a b 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2005』廣済堂出版、2005年、47頁頁。ISBN 978-4-331-51093-3 
  3. ^ Hoch, Bryan (2007年11月29日). “Yanks make Posada signing official” (英語). The Official Site of The New York Yankees. 2009年3月23日閲覧。
  4. ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2009』廣済堂出版、2009年、83頁頁。ISBN 978-4-331-51370-5 
  5. ^ a b 杉浦大介 「MLB30球団レポート&全選手個人成績 ニューヨーク・ヤンキース/NYY チーム想いのポサダが下した決断」『スラッガー』2008年10月号、日本スポーツ企画出版社、2008年、雑誌 15509-10、75頁。
  6. ^ Bans, Willie (2008年7月30日). “Posada undergoes shoulder surgery” (英語). The Official Site of The New York Yankees. 2009年3月23日閲覧。
  7. ^ New York Yankees vs. Baltimore Orioles - Recap - September 1, 2009,SI.com
  8. ^ Bryan Hoch,Posada, Carlson hit with suspensions,MLB.com(英語),2009/09/17
  9. ^ ヤンキース一筋 ポサダ引退へ 昨季捕手での出場1試合のみsponichi annex 2012年1月8日
  10. ^ 村上雅則監修 友成那智編著 『メジャー・リーグ完全データ選手名鑑2010』廣済堂出版、2010年、45ページ。
  11. ^ 【MLBコラム】ヤ軍・ポサダの出場拒否騒動





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