フランス革命
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革命政権の変遷
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党派の形成
ベルサイユ行進の後革命運動を指導、組織するいくつかの党派が形成された。財政危機の中で様々な動きがある中でそれぞれの階級の人物が動き、次第にいくつかの党派へのまとまりが作られていった[92]。ラファイエット派は1790年5月に設立され入会金は100リーブルで、かなり高い収入がないと入会できなかった。ここには最上層部に属する自由主義貴族と最上層のブルジョアが参加した[93]。パリのジャコバン修道院を会場に設立されたジャコバンクラブは国民議会の左派が集まった。会費は年間24リーブル、入会金は12リーブルで、職人や労働者では参加できなかった。ジャコバンクラブには議員以外にも職人の親方層から貴族まで広く参加した[94]。コルドリエ・クラブは大衆を組織してその意見を政府と議会に押しつけることを目的に設立された。1790年4月頃には存在していた。会費は月2スーと極めて安かった。小商人から職人、労働者まで参加した。このクラブの指導者の中に後に恐怖政治の推進者の姿がかなり見られた[95]。コルドリエクラブの実権を握っていたものも裕福なブルジョアであった[95]。
国王の逃亡
1790年10月に国民議会の改革に歯止めをかけようとして国民議会の多数派と対立していたネッケル派の大臣が辞職に追い込まれた。国王はこれを受けてパリにとどまって国民議会と妥協を重ねることの無意味さを認めて、逃亡計画を密かに立てた[96]。1791年6月20日に脱出計画が実行されたが、国境近くのヴァレンヌで捕まり、パリに連れ戻された[97](ヴァレンヌ事件)。
この事件の結果、もっとも右翼的、保守的な貴族議員が相次いで亡命した。軍隊の貴族将校からも大量の亡命者を出した。高級僧侶や高級貴族のうち王党派とみられた者は監視されたり監禁されたりした[98]。国民議会の左翼は王権を廃止して共和制を宣言する請願書を出し、貴族政治家はほぼ一致して国王を守ろうとした[98]。ジャコバンクラブの多数はルイ16世の廃位を決議したが、議会の多数が賛成して王位は守られた[99]。
フイヤン派の政権
ジャコバンクラブから分離した勢力が1791年7月16日にフイヤン修道院でフイヤンクラブを結成した。フイヤンクラブの議員が議会の多数になった[99]。7月17日に議会は共和派の集会を弾圧し、国民衛兵を派遣し、発砲によって数百名の死者を出した(シャン・ド・マルスの虐殺)。フイヤン派の権力は軍事力と警察力を背景に安定した。共和派の革命派は潜伏した[100]。
フイヤン派には自由主義貴族(領主)とブルジョアジーの最上層が結集していた。領主権の維持と確保のため8月27日に貢租の増加が決定された[100]。9月3日に憲法が成立し、立憲君主制を採用して行政権は国王に属し、立法権は議会に属するが国王に拒否権を認めた(1791年憲法)。議会は一院制で選挙権も被選挙権も一定の租税を納める者[注 24]に限定した[101]。「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言された[注 25]。こうして革命の第一段階は終わった[101]。
1791年9月30日に国民議会は解散し、新憲法の下で10月1日に立法議会が招集された。国民議会の議員は立法議会の議員になれないという規定が設けられたので、議員は全員入れ替わったが、議会の党派は変わらなかった[102]。権力の主導権を握るフイヤン派が264人、野党的左派が136人、無所属の中央派が345人いた。フイヤン派は絶対多数を取ったわけではなかったが、政治は安定し輸出と商品は増加し経済は安定した[102]。革命直前に比べて1791年のパンの値段は43パーセント下がり、肉の値段も41~30パーセント下がった。下層階級の生活は安定し、騒乱状態は遠ざかった[103]。憲法の成立を祝って大赦令が出され、共和派、貴族の反革命派も釈放された[104]。
1792年1月に物価高騰が始まった。買い占め人とみられた商人の何人かが群衆に襲撃され破壊や放火の対象になった[105]。アシニアの価値は下落をはじめた。1791年度の国家財政は1億6200リーブルの赤字となった。赤字の原因は新しい租税の基本となった地租が土地所有者の抵抗によって進まなかったためだった。赤字を補充するためにアシニアの増発が行われた[106]。アシニアの信用をめぐってフイヤン派のブルジョアジーと他のブルジョアジー勢力との対立が起こった[107]。
外国の革命干渉と議会内の対立
そのころ亡命貴族と王弟はドイツに集まっていた。1791年8月25日に南ドイツのピルニッツでオーストリア皇帝とプロシア王の共同宣言によって、フランス国王の権利を回復するために、両国が武力行使をする決意が述べられた(ピルニッツ宣言)。対抗策として立法議会のジャコバン系は王弟と王族財産の没収を要求し、11月9日に可決された。11月8日に亡命貴族の財産没収と死刑の適用を含む法律がフイヤン派の反対を押し切って可決された[108]。ルイ16世は亡命貴族についての法令は承認しないと通告した[108]。議会の中では戦争に賛成する者と反対する者の対立が起こった[109]。1792年3月10日にフイヤン派の内閣は崩壊した[110]。
第一次ジロンド派政権
フイヤン派の後に成立した内閣はジャコバンクラブの中心メンバーのジャック・ピエール・ブリッソーを中心にしていたのでブリッソー派と呼ばれた[110]。新閣僚の名前は国王の任命よりも数時間早く議会に通告され、王の権力はほとんど失われていた[110]。この政権は後にジロンド派とよばれるようになった。1791年12月13日に議会は亡命貴族の年金や国債の支払いなど、国家からの支払いを打ち切る決定をおこなった[111]。1792年の春、各地で領主に対する暴動が起き、領主の城が焼かれ略奪された。3月30日にジロンド派の提案で亡命貴族財産を差し押さえ、これを国民に対する賠償に用いることが決定された[111]。
この時期に領主権の無償廃止が政争の焦点となった。領主権の無償廃止をジロンド派も含めたジャコバン派議員が提案し、フイヤン派が抵抗した[112]。
敗戦とジロンド派内閣の失脚
ジロンド派内閣はオーストリアとの戦争の議会の賛成を取り付け、オーストリアとプロイセンに宣戦布告した(フランス革命戦争)。しかし、国境に展開したフランス軍は依然として将校は貴族で、革命前の階級制度が維持されていた。貴族将校や貴族の将軍は革命政府を嫌悪して戦争をやる気が無かった。国王と王妃も敗戦を望み、フランスの作戦計画は国王と王妃を通してオーストリアに内通されていた。フランス軍は各地で敗走し、敵国軍はあまり困難なくフランスに侵入した[113]。こうした事態から、戦争に勝つためには新しい愛国心を持ったフランス人による軍隊を組織しなければならないことが痛感された[114]。議会では領主権の無償廃止を阻止したいフイヤン派が復権し、国王はジロンド内閣を6月13日に罷免した。ラファイエットは軍をひきいてパリへ進撃し、フイヤン派の独裁政権を作る計画を立てていたので,積極的に敵国軍と戦闘をしなかった[115]。7月6日にルイ16世は、国境にプロシア軍が迫っていることを議会に報告した。無所属の中央派議員[注 26]は革命フランスを敵国から守る意思を持っている者が多かったので、7月10日フイヤン派の大臣は辞職に追い込まれ、議会は「祖国は危機にあり!」という宣言を出した[116]。
8月10日の武装蜂起
フランスの危機にこたえて義勇兵がパリに到着し、彼らは「連盟兵」と呼ばれた[116]。武装蜂起を計画していたパリの諸区は王権の停止を議会に請願していたが、議会主義の枠内ではどうにもならないと判断して8月9日の夜にルイ16世のいるテュイルリー宮殿を包囲した[117]。これに対して領主権の無償廃止に反対する貴族階級が、党派を超えて王制を守る決意を持って宮殿に集合した[118]。8月10日は貴族階級の命運を分けた死闘になった(8月10日事件)。武装蜂起の側は貴族軍人を虐殺しながら宮殿を占領していった[119]。戦闘が終わると群衆が議会を囲み、王権の停止と普通選挙による国民公会の招集が要求され、立法議会はその圧力に屈した。8月10日で敗北したものは、フイヤン派のブルジョアジーと自由主義貴族、合流した地方貴族だった。彼らは旧体制に対する寄生性が強く特権的な立場にあり、領主でもあった[120]。
第二次ジロンド派政権
1792年8月10日の事件で国民公会が招集されジロンド派政権が再び成立した。この政権は上層ブルジョアジーの党派だが、旧体制の特権に関わり合いを持つことが少なかった者達の政権だった。彼らは領主権の無償廃止に積極的だった[73]。ジロンド派はジロンド派の2倍の勢力があった平原派と呼ばれる国民公会の上層ブルジョアジーの中間層と連合して政権運営をした[73]。フイヤン派の打倒によりこの政権が封建領主権の無償廃止を実現した[121]。この結果、領主の直轄地はそのまま旧領主の所有地として残り、新時代の貴族の大土地所有地として残り、大・中・小の保有地は領主権から解放されて近代的所有地となり、それぞれ大・中・小の土地所有者となった。もともと土地を保有していなかった農民には土地は与えられなかった[121]。
パリ・コミューンの登場
立法議会は8月10日の事件で群衆の圧力に屈したので信用と権力を弱めた。そのすきまを縫って議会と対立しつつ、パリ・コミューン[注 27]がパリ市を治める権力機関になった[120]。プロシア軍がパリに迫ると、義勇兵の募集、戦略物資の調達、反革命容疑者の捜査と逮捕、前線への派遣委員の任命などを行った。こうして3000人の容疑者が投獄された[123]。パリ・コミューンは出撃する前に逮捕されている反革命容疑者を処刑するべきであるという意見が優勢になり、9月2日に扇動された義勇兵とパリ市民は牢獄に押しかけて即席裁判で容疑者を殺害して回った[124](九月虐殺) 。
ヴァルミーの会戦
義勇兵は前線に向けて出発した。義勇兵は連盟兵と呼ばれフランス各地から集まってきた者で、自費か誰かの費用で武装していたブルジョアの子弟だった。貧しい階層はブルジョアの費用で武装した「ブルジョアの傭兵」だった。特にマルセイユ連盟兵[注 28]は裕福な家庭の子弟だった[126]。義勇兵の出撃と並行して軍需物資と食料の強制徴発が立法議会によって行われ、義勇兵の装備が強化された[126]。
9月20日義勇兵とプロシア軍はヴァルミーの丘で出会った(ヴァルミーの戦い)。当時、軍隊は貴族のもとで整然と組織されなければものの役に立たないと思われていた。しかし、戦闘が始まると義勇兵の士気の高さと覚悟の強さに、プロシア軍は突撃命令を出すことができなかった[127]。プロシア軍は砲撃戦だけで終わり、わずかの死者を双方に出しただけで後退した[127]。プロシア軍は傷ついていなかったので征服地を押さえるつもりで駐屯したが、赤痢の発生と、農民部隊による輸送部隊の襲撃で、危険を感じて撤退した。義勇軍は重大な戦闘なしにプロシア軍を国境から追い出すことができた[128]。9月から10月にかけて義勇軍はドイツ領深く侵入して重要都市を破竹の勢いで占領した[128]。10月の末にオーストリア軍とフランス革命軍の激戦が行われオーストリア軍に大打撃を与えた[128](ジェマップの戦い)。
国民公会の招集
ヴァルミーの会戦と同じ日にパリでは国民公会が招集された。議員は700人を超え、ジロンド派[注 29]約165人と平原派[注 30]約400人とモンタニヤール派(山岳派)[注 31]約150人の三大勢力に分かれた。ジャコバンクラブは議会外団体としてジロンド派と山岳派の両議員が含まれていたが、内紛によって山岳派だけの支持団体になった[130]。9月21日に王政の廃止と共和制の樹立を宣言した[131]。(フランス第一共和政)
国民公会では国王の裁判が進み長い討論と一人一人の議員の指名点呼による評決を行い小差[注 32]でルイ16世の無条件死刑が決定された[133]。ルイ16世は1793年1月21日にギロチンにかけられた。
敗戦とジロンド派の失脚
1793年3月になるとフランスは敗戦に転じ、ヨーロッパの強国から侵略された[134]。原因は御用商人の悪徳行為で軍隊の食糧事情と待遇が悪くなり、士気が低下し、義勇兵が減少したことと、初期の戦勝に気を良くしたフランス革命政府が次第に征服と膨張政策に傾き、一種の世界革命的なイデオロギーで正当化してフランスの敵が増えたことにあった[133]。
アシニアの価値が下落し、物価高騰が起こり、貧民の暴動を誘発した。しかしこれを力で弾圧するとヨーロッパ列強との戦争に、献身的な民衆を動員することができない。物価高騰を止めるためにはアシニアの価値を維持し、増発されたアシニアを流通から引き上げねばならない。このための政策として貴金属売買の禁止、アシニアの強制流通、アシニアと競合する手形・株などの証券の取引禁止、累進強制公債(革命税)[注 33]などの政策が議論された[136]。累進強制公債には金持ちが反対し、ジロンド派はこれらの政策に抵抗したが、平原派はだいたい賛成した[137]。ジロンド派は食料品・嗜好品を中心とした貿易商人や問屋商人が多く、国家との取引でもうけるすべがないまま、巨額の革命税を取り立てられたため反乱を起こした[138]。平原派は工業家や軍需物資を扱う商人が多く、外国との戦争で国家の軍事注文を受けて莫大な儲けを得た資本家が背後にいた。彼らは一時的な犠牲[注 34]を払っても戦争に勝ってほしいと考えた[140]。
ジロンド派は平原派の支持を失って、次第に山岳派に押されていき権力の座から後退していった[141]。ジロンド派は累進強制公債の採決に敗れると、徹底的な反抗を組織した。それに対して山岳派とジャコバンクラブが過激派と手を組み、5月31日と6月2日に武装したパリ市民が国民公会を包囲し、ジロンド派議員は逮捕された。1793年10月3日に21人のジロンド派議員が処刑され、10月16日には王妃マリー・アントワネットも処刑された[142]。
山岳派政権
1793年6月2日の事件で山岳派の政権が成立した。当時のフランスは大混乱にあり、政府の権力が及ばない地域もあれば、欧米列強の占領地もあれば、昔の領主がまだ政府以上の権勢を維持して違法な封建貢租の取り立てもあった[143]。このため政府は改めて「封建貢租徴収の禁止」の法令を出した[144]。
三委員会の設置
国内の混乱に対処するため、政府は臨時行政会議と呼ばれる内閣を組織し、公安委員会がその内閣を監視指導した。保安委員会は公安委員会から独立した警察権力を発動した。公安委員会と保安委員会はジャコバンクラブを背景に持つ国民公会の山岳派議員が大多数を出した[145]。また平原派は財政委員会を担当し、個人や企業の契約に対して、国家の資金を支払うかどうかの決定権を持った[145]。こうして公安、保安、財政の三委員会の権力ができた[146][注 35]。
過激派の台頭
このころフランス軍は敗北を重ね[注 36]、食料品の高騰や買い占めが激しくなり、貧民の暴動が起こった[注 37]。これに乗じて過激派の各党派が最高価格制による物価の抑制、買い占め禁止法、買占め人の処刑などの非常手段を要求して、国民公会に圧力をかけた[148]。1793年7月10日に公安委員会が改選され、平原派が後退した。7月27日にマクシミリアン・ロベスピエールが公安委員会に迎えられた[149]。内外の情勢はさらに絶望的になり、9月5日に過激派の中の最大勢力のエベール派が群衆を動員して国民公会を包囲した(9月5日の行進)。過激派は「反革命容疑者の逮捕」「食料調達のための革命軍の編成」を要求した[149]。このときは平原派は発言せず山岳派が議論を闘わせたが、ロベスピエールを初めとして山岳派は群衆に屈して国民公会と公安委員会がその政策を実施させられた[150]。
恐怖政治の実施
9月5日以降、貧民の圧力を背景にしたエベール派の圧力で、後に恐怖政治と呼ばれる政策が実行された。それまで大した仕事してこなかった革命裁判所[注 38]の人員が増強され、次々と反革命容疑者に死刑を宣告していった[152]。9月29日に最高価格制が布告された。生活必需品の品目を定め最高価格を決定した。この布告で群衆が商店に押しかけ商店は空になった。10月の末になるとパンがなくなり、パリ・コミューンはパンの配給切符を実施し、他の都市も真似をした。品不足と食糧不足が起こった[151][注 39]。10月4日に買い占め人を摘発するための法令が国民公会に提案され、買い占め人の家宅捜索と強制徴発を行い、即席裁判でギロチンにかけることが決まった。10月半ばにはさらに食糧不足が深刻になり「革命軍」を新しく編成し[注 40]、農村を回って食料を徴発し、家宅捜索を行い、違反者を処刑して回った。これによって一時的には都市の食糧不足を和らげた[154]。
国民公会と公安委員会は群衆の圧力に応じて恐怖政治を進めたが、同時に群衆を扇動した過激派の弾圧も続けた。食糧危機が一段落し人心が収まったのと、戦争が勝利に転じたことを背景に、過激派指導者たちは消えていった[155]。
恐怖政治の効果
パリには多くの外国人銀行家が集まっていたが、これらが排除された結果、無制限な投機行為が抑えられ、アシニアの買いたたきや食糧調達が改善され、経済危機の緩和に役立った[156]。革命政府の取った非常手段は、累進強制公債、金属貨幣の流通停止、アシニアの強制流通、証券取引の停止などだったが、これによって唯一の紙幣となったアシニアの価格が上昇に転じた。最高価格制と強制徴発、買い占め禁止、違反者の厳罰も効果があった。物価はこれを反映して安定し、下層民の生活は安定した[157]。足下を安定させた国民公会と公安委員会は全力挙げて反革命軍と外敵との戦闘に向かった[158]。またこの政策の結果、フランス軍では正規軍と義勇兵の区別がなくなり、貴族将校の後を平民将校が埋めた。彼らは能力もあり勇敢だったので兵士の信頼を集めた。暴利をむさぼった御用商人も粛正され軍隊の装備も良くなった。重工業がフル回転を始め武器弾薬が豊富に供給された[159]。この結果列強を敗走させ、1793年の末までに革命政府は内外の危機から解放された。これらの政策で打撃を受けた者は外国の貿易会社、貿易商人、これと結びついていたフランス商人だった。一方利益を受けた者はフランスの工業家だった。革命政府は工業の振興に努力をし、軍需工業とその関連部門に資金を投入した。これは商業を犠牲にした工業の育成となった[158]。また、このとき革命のスローガンが「自由・平等・友愛」に変わった[160]。
ロベスピエールの孤立
1794年になるとフランスは危機を脱し、安心感が出てきた。こうした中でロベスピエールは、反革命容疑者の財産を没収して土地のない貧民に与えるための「ヴァントーズ法」を提案した[注 41]。ロベスピエールは反革命容疑者を裁くための人民委員会の設立を提案し、可決させ、反革命容疑者の逮捕に乗り出した[162]。最後に汚職議員、腐敗議員の逮捕・裁判の権限を行使することを認めよと国民公会に提案したが、国民公会の平原派議員と山岳派議員の大多数から反対された。当時の議員の大多数は何らかのやましいところがあったからであった[162]。また、ロベスピエールは独裁者であるという批判が、国民公会や保安委員会の多数派から投げつけられ、ロベスピエールは最後の1ヶ月は公安委員会に出席しなくなった[162]。ジャコバンクラブでロベスピエールは無力になったと打ち明けた[159]。
テルミドールのクーデター
ロベスピエール派の山岳派議員はわずか10人ほどで、他の山岳派議員はロベスピエール打倒に回った。ロベスピエールはジャコバンクラブから反対派を排除し、組織固めをした[163]。ロベスピエールの去った公安委員会は反革命容疑者の選別の厳格化をさせたり財産差し押さえを延期させた[163]。ロベスピエールは議会で演説したが、大多数の議員に支持されなかった[164]。
ロベスピエールは7月27日(テルミドール9日のクーデター)にパリ・コミューンと同盟を結んだが、軍隊が集まらず、国民公会の軍隊に急襲されて逮捕された。7月28日、ロベスピエールら約100人が処刑された。1794年7月28日に国民公会の諸委員会の改選が行われ、8月25日に12の行政委員会に権力を分散した。この結果、平原派が力を持つようになりジロンド派の生き残りを復帰させた[165]。ロベスピエール死後も恐怖政治の継続を主張した山岳派は排除され、恐怖政治は全廃された。株式市場と商業取引所の再開、処刑された者の財産も返還された[注 42]。国債利子の支払い停止も撤回された。こうした政策によりブルジョアジーの財産は回復され、元通りの活動が再開された[166]。11月12日、国民公会はジャコバンクラブの閉鎖を決議した[167]。ちょうど「8月10日事件」以後の状態に戻り、ここでフランス革命は終わった[168]。
注釈
- ^ 中世のフランスは日本の戦国時代に近い状態で、王権とは名のみの存在であり、各地に私兵を抱えた大貴族が群雄割拠していた。これらの大貴族の中には外国の君主に服属する者が多数いた[8]。
- ^ 宮廷貴族になるには少なくとも1400年代にまで遡って、貴族の家系であることが証明されなければならなかった[11]
- ^ たとえば11歳や12歳の宮廷貴族が総督に任命されることが珍しくなかった[13]。
- ^ たとえばコンデ太公の総督職は合計51万2000リーブルの年収になった。これは現在の換算で51億円以上となる。また大臣になると就任費を受け取る権利があり、高級官僚の収入は数億円から数十億円に相当するものになった[19]。
- ^ これらの小姓は家柄の低い宮廷貴族や、高級貴族の年少の子弟がなった。その官職には、王の髪をとくだけの係、マントを持つ係、ステッキを持つ係、便器を運ぶ係、ネクタイを結ぶ係、風呂場でふく係など多くの係を作って、それぞれに俸給を与えていた[21]。
- ^ 当時、標準的な職人、労働者の日給が1リーブル前後であった。年収では360リーブル前後となる。正確な比較はできないが、1リーブルは1万円前後となる。1万リーブルは1億円程度と考えると理解しやすい[19]。
- ^ たとえばポリニャック公爵夫人は娘の持参金に80万ルーブルを国王からもらい、ランバル公爵夫人は王妃付き女官長となり、彼女の父は王から3万リーブルの年金と1個連隊を与えられた[24]。
- ^ ルイ15世は「朕の宮殿での盗みは莫大なものだ。多くの高官が盗みに没頭し、全てを使い果たしている。朕の大臣のすべてがそれをただそうと努めた。しかし、実施の段階で尻込みして計画を放棄した」と述べている。国王が臣下の宮廷貴族たちを泥棒よばわりしている。これを打ち切ろうとすると宮廷貴族の反撃に遭うのである[26]。
- ^ 「朕は国家なり」という解釈は高等法院と王がいざこざを起こしたときに、王の側から打ち出された原則であった[28]。
- ^ 高等法院議長の職が11万リーブル、検事次長の職が4万リーブルという数字が残っている[29]。
- ^ 租税の滞納者は簡単に逮捕され、脱税のための密売の嫌疑がかけられるだけで有罪とされ、無罪が証明されなければ釈放されなかった。そのため、多くの商工業者やその妻子が厳しい刑罰を受け、背中をむち打たれることは珍しくなかった[35]。
- ^ 恐怖政治の時代に28人の徴税請負人がギロチンにかけられた。その中には科学者として高名だったラボアジェもいた。ラボアジェは総徴税請負人の利益が年間4万から5万リーブル(約4~5億円)になったと記録している[35]
- ^ ケース・デンスコントはブルジョアジーの中央銀行であったが、ブルジョアジーが出資した資本金を国王政府が財政赤字を理由に強制的に借り入れた。そこで準備金は減少し、ケース・デンスコントの信用は落ち、銀行の発行する紙幣の流通が困難になった。これも革命を引き起こした原因となった[38]。
- ^ 負担率は地方によって異なり、4分の1から20分の1までの差があった[40]。
- ^ ネッケルは成功した銀行家で平民だったので、最初は国王に面会もできなかった。テュルゴーは貴族だったが宮廷に出入りできる身分ではなかった。彼らの任命はあくまで非常事態にもとづく、国王のやむを得ない措置だった[46]。
- ^ 彼は高級僧侶で名門の宮廷貴族だった[48]。
- ^ 印紙税はアメリカ独立戦争の口火を切らせた悪税だった[48]。
- ^ フランス王立銀行のこと。日本の定義では金庫に相当する民間が出資する特殊法人。もとはルイ15世時代の財務総監ジョン・ローが開設したジェネラール銀行で、その破産によって王立となった。その後、財務総監テュルゴーに引き継がれる (fr:Caisse d'escompte) 。
- ^ 当時は金属貨幣の時代なので、紙幣は金属貨幣と交換可能だった。
- ^ États généraux, 各身分の代表から構成される身分制議会。
- ^ 自由主義貴族や宮廷にすら入れない法服貴族[54]。
- ^ このとき亡命したのはブロイ公爵、ブルトゥイユ男爵、ランベスク太公、ポリニャック公爵、コンデ太公などであった[75]。
- ^ この時のスローガンは、自由・平等・私有財産の不可侵だった。
- ^ 選挙権を持つ者を「能動市民」、持たない者を「受動市民」と呼んだ。政権に参加できる者は少なくとも手工業の親方や小商店主、中農以上の者に限定された[101]。
- ^ 絶対主義の時代は外国人領主の領地や外国扱いされていた地方があって、かならずしもフランス王国の領土と認められていないものがあった[101]。
- ^ のちにこの勢力は、議場の中央の低いところに集まっていたので平原派と呼ばれるようになる。
- ^ 前身はパリ選挙人会議である。もとはフイヤン派で固められていたが、8月10日以後はパリのそれぞれの区の代表と自称する者が議場に侵入し、前議員を追放して「革命的コミューン」「蜂起コミューン」と称するようになった[122]。
- ^ マルセイユ連盟兵は「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら行進し、のちのフランス国歌になった[125]。
- ^ ジロンド県から来た議員が華々しく活躍したことから付いた名[129]。
- ^ 中央の低い議席に集まっていたことによる呼び名[130]。
- ^ 議場の高くなっている席に陣取って、他の議員が彼らを見上げて「山にいる」という意味であだ名を付けた[129]。
- ^ 387対334の差だった[132]。
- ^ 富者の財産を尊重しながら一時的に彼らから金を借り、もし祖国が救われたときは借りたものを返すという精神だった[135]。
- ^ ジロンド派の心配の通り、このときの累進強制公債は後日切り捨てが行われ、完全に返済されることはなかった[139]。
- ^ この事実は通俗的に使われている「ジャコバン党の独裁」は無かったのであり、正確には山岳派と平原派の連合政権とするのが正しい[146]。
- ^ オーストリア軍の大軍が国境からパリを脅かし、フランス海軍の軍港がイギリスに占領され、スペイン軍が侵入した[147]。
- ^ 商人や大農民が穀物を買い占めパリに食料が入ってこなくなった[147]。
- ^ 1793年3月10日、フランス軍が敗走を始めたときに作られたが、活動はゆっくりしていて寛大だった。裁判所の判事と陪審員には職人、労働者はいなかった[151]。
- ^ このことは議員たちには予想されていたが、群衆の圧力でしかたなく議員は布告に賛成した[152]。
- ^ その頃の正規軍はすべて国境にいた。革命軍の指揮官の多くはブルジョアや大土地所有者の階層だった[153]。
- ^ この法令が実施されていれば「土地のない農民に土地を与える」という土地革命が初めて実現したはずであったが、ロベスピエール排除の結果、フランス革命では最後まで土地革命は実現されなかった[161]。
- ^ 革命のスローガンは「友愛」から再び「財産を守れ」が表に出た[160]。
- ^ ピネル神話には異論もある[173]。厳密には、一連の精神医療・医学の改革はピネルと監護人ピュサンの「合作、共同作業とみなすべきであろう」、と精神科医の影山任佐が述べており、高橋もそれに同意している[175]。人道主義的に精神病者へ自由を与えたピネルは感動をもって語り継がれたが、ピネル自身の記録によると1798年5月23日に「鎖からの解放」を行ったのは、監護人であったピュサンである[176]。ピネル本人が「鎖からの解放」を行ったのはその3年後、転任先であるサルペトリエール救済院だったと高橋は述べている[175]。
- ^ 哲学者ミシェル・フーコーは「狂気は疾患ではない」という狂気観や「反精神医学」を主張してピネルとフランス革命を批判したが、そこには「臨床医学的観点」が欠けていると高橋は述べている[180]。確かにフーコーが観察した精神医療の現場は悲惨だったが、それは薬物療法が開始される以前の現場であり、しかもピネル以前へ退行したかのような野蛮な「医療」が行われていた場所だった[180]。一方、フーコーの師であるジョルジュ・カンギレムは医者でもあり、カンギレムがピネルを「独立した学問分野として精神医学を設立した」と評価したことは事実に基づいていて、医学的に正確だと考えられている[180]。フーコーに対する医学界からの批判はしばしば、フーコーの「治療者としての視点」の欠如を挙げている[181]。クルト・シュナイダーが指摘しているように、精神疾患は明らかな「脳の病変」を伴うことがあり、実生活だけでなく生存さえ危険にすることも少なくない[181]。「この点においてフーコーの批判は誤りである」と高橋は述べている[181]。高橋が言うにはピネルの精神医学開拓と臨床改革は、サルペトリエール病院やサンタンヌ精神病院へと継承されて、優れた多数の精神医学者たちを輩出し、フランスで精神医学を築いていった[180]。
出典
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