ファーティマ朝のエジプト征服
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エジプトへの侵攻と征服
ジャウハルは968年12月26日にラッカーダで自身の天幕を設置し、ジャウハルの指揮の下で遠征軍の招集が始まった。カリフのムイッズは、ほぼ毎日近接するマンスーリヤの宮殿から規模が拡大していく野営地の様子を視察に来た[56]。アラブの史料では、招集された軍隊は100,000人を超える規模であったと記録されており[70]、強力な海軍の戦隊を伴い[注 4]、戦争資金として1,000個を超える金貨で満たされた箱が準備された[73]。969年2月6日にカリフが自ら進行役を務める正式な式典が開催された。そこでカリフはジャウハルに全権を授与し、式典の後に続いて軍隊が出発した。ジャウハルに全権が与えられたことの証として、カリフとジャウハルだけが式典中の騎乗を許された。カリフの息子や兄弟を含む他のすべての要人は、馬から降りてジャウハルに敬意を表すように命じられた。ムイッズは新しい総督に授けられた権威をさらに強調するために、しばらくの間騎乗して軍隊に同行し、その日に自身が着用した豪華な衣装をジャウハルに与えた[74][75]。軍隊はバルカに向けて進軍し、そこでヤクーブ・ブン・キッリスが軍隊に加わった[76]。
ファーティマ朝の軍隊は969年5月にナイルデルタに入った[76]。ジャウハルは抵抗を受けることなくアレクサンドリアを占領し、アレクサンドリアに近いデルタ地帯の西端に位置するタッルージャに要塞化した野営地を築いた[73]。その一方で前衛部隊はファイユーム・オアシスに向かって進軍した[76]。ジャウハルの軍隊はエジプトに入ったときには全く抵抗に遭うことがなく、すぐに海からファイユームに至るまでのナイル川西岸の支配を手に入れた。その後ジャウハルは動きを止め、フスタートの反応を待ち構えた[29]。
ジャウハルのアマーン
エジプトの行政の中心地であり最大の都市であるフスタートはエジプトを支配するための鍵であった。ファーティマ朝は自身の経験からそのことをよく認識していた。以前の侵略ではファーティマ朝はエジプトの大部分を占領することに成功したものの、フスタートの占領に失敗したことが軍事行動の帰趨を決めた。ヤーコフ・レフは、イフシードがたどった道程と969年のジャウハルの成功を例に、反対に「地方を完全には占領下に置かなかったにもかかわらず、中心地を征服したことが国の運命を決定づけた」として、これをその証拠として挙げている[77]。
6月初旬にフスタートの指導者の一団がその要求、特に個人の安全と財産、そして地位の保証を求める内容を記した一覧を作成し、その一覧を携えた使節団をジャウハルに派遣した[76][78]。さらに、唯一大規模な軍事組織を率いていたイフシーディーヤの指導者であるニフリール・アッ=シュワイザーンが、これらの内容に加えて聖地であるメッカとマディーナの総督として自分を指名するように要求した。しかし、ヤーコフ・レフは、この要求は「非現実的」であり、明らかに「ファーティマ朝に特有な宗教面への敏感さに対する理解が完全に欠如」しているとしてこの要求の存在を否定している[78]。使節団はアシュラーフ[注 5]の一族の指導者であるフサイン家のアブー・ジャアファル・ムスリム、ハサン家のアブー・イスマーイール・アッ=ラッスィー、およびアッバース家のアブル=タイイブの3名、そしてフスタートの司法長官(カーディーの長官)であるアブー・ターヒル・アッ=ズフリーとファーティマ朝の教宣員を率いるアフマド・ブン・ナスルからなっていた[76][81]。
国の平和的な降伏と引き換えに、ジャウハルはムイッズの代理人として安全を保障する令状(アマーン)とエジプトの全住民への公約を記した一覧を公布した[81][82][注 6]。ヤーコフ・レフが指摘するように、アマーンは「新体制の政治的な計画と宣伝を記した声明書」であった[85]。より具体的には、アマーンは東方のイスラーム世界における敵 — 明示はしていないもののビザンツ帝国を暗に示している — からイスラーム教徒を保護するために侵攻したという正当性を説明するための試みとして公表された[78][85]。この声明は国内の工作員によってファーティマ朝にもたらされたエジプトの実情に関する詳細な情報を明らかにし、秩序の回復と巡礼路の保護、ないしは違法な徴税の撤廃や貨幣の質の改善といった新体制が取り組むべきいくつかの具体的な改善内容を提案していた[86][87]。巡礼者を保護するという公約は、東洋学者のウィルファード・マーデルングの言葉を借りれば、カルマト派に対する「明らさまな宣戦布告」であり、ジャウハルは文章の中でその名前を明記して罵っている[88]。イスラームの宗教者層(説教師や法学者など)に対しては、俸給を支払い、既存のモスクを復旧し、新しいモスクの建設を約束することで懐柔を試みている[87][89]。
最も重要な点は、イスラームの単一性、そして預言者とイスラームの初期の世代の「真のスンナ」への回帰を強調することによって文章を終えている点であり、それによってスンニ派とシーア派が共通して支持する立場に立っていることを主張している。しかし、その文章の言い回しはファーティマ朝の真の意図を隠していた。なぜならば、イスマーイール派の教義によれば、「真のスンナ」の真の継承者でありそれを解する者はファーティマ朝のイマームでありカリフとされていたためである。公の儀式と法学(フィクフ)における極めて重要な争点において、ファーティマ朝がイスマーイール派の教義に優先的な地位を与えようとしていたことはすぐに明らかとなった[87][89]。しかしながら、このアマーンは当面の間の目的は達成した。ヤーコフ・レフは「全体的に見れば」としつつ、「エジプト社会の幅広い階層に訴えかける説得力のある文章であった」と述べている[89]。
フスタートの占領
使節団は6月26日にジャウハルの書簡を携えてフスタートへ戻った。しかし、まだ使節団が到着する前にもかかわらず、軍が受け入れを拒否し、ナイル川の渡河を阻止して戦うことを決意したという噂が広まった。書簡が公に読み上げられた時、特に軍の将卒が声高に反対を叫んだ。これに介入したワズィールのジャアファル・ブン・アル=フラートでさえ従うように説得することができなかった[87][89]。ジャウハルはこれを受け、この遠征はビザンツ人に対するジハードであると宣言し、司法長官にその歩みを妨害する者は信仰の敵であり殺される可能性があることを確認させた[87]。エジプト側ではニフリール・アッ=シュワイザーンがイフシーディーヤとカーフーリーヤの共同の軍司令官に選ばれた[89]。ニフリールは6月28日にローダ島を占拠し、ジャウハルが野営地を築いたナイル川西岸のギーザとフスタートを結ぶ舟橋の通路を掌握した[87][90]。
史料によって記録の詳細が異なっているため、その後の交戦の経過は不明瞭である[91]。最初の交戦は6月29日に行われたが、ジャウハルは撤退を余儀なくされ、その後、他の場所から川を渡ることに決めた。史料にもよるものの、ナイル川の渡河はイフシード朝から離脱したグラームの一団によって提供された舟か、フスタートの守備隊を支援するために下エジプトより派遣されたイフシード朝の艦隊からジャアファル・ブン・ファッラーフが奪った舟によって行われた[90]。ジャアファル・ブン・ファッラーフがファーティマ朝の軍の一部を率いて川を渡ったが、渡河が行われた正確な場所は不明である。マクリーズィーによれば、4人のイフシード朝軍の指揮官が部隊と共に上陸可能な地点の防御を強化するために派遣されたものの、ファーティマ朝の部隊は困難を伴いながらも川を渡ることに成功した。そして7月3日に双方の軍隊が衝突した。戦闘の詳細は不明であるが、ファーティマ朝軍に対抗するためにギーザから向かったイフシード朝軍の全軍が壊滅し、ファーティマ朝側が勝利を収めた[92]。その後、イフシード朝の残存部隊はローダ島を放棄して散り散りになり、フスタートを去って安全な場所を求め、シリアまで逃亡した[87][89]。
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フスタートはこれらの出来事によって混乱状態に陥ったものの、その最中にファーティマ朝のダーワが現れて治安部隊(シュルタ)の長官と連絡を取り、降伏の印として街の至る所に白いファーティマ朝の旗[注 7]を吊り下げた。その間にシュルタの長官が旗を掲げて鐘を鳴らしながら街頭を行進し、ムイッズがカリフであると宣言して回った[94][95]。軍隊の抵抗はジャウハルのアマーンの破棄につながり、慣例に従って都市の略奪が認められた。その上でジャウハルはアマーンの再開に同意し、アブー・ジャアファル・ムスリムにアマーンの維持を委ねた。その一方でジャアファル・ブン・アル=フラートは逃亡した軍の指揮官の家を没収する任務を課された[96]。
7月6日にジャアファル・ブン・アル=フラートとアブー・ジャアファル・ムスリムは有力な商人を引き連れて舟橋を渡り、ギーザにいるジャウハルを表敬した。同じ日の夜にファーティマ朝の軍隊が橋を渡り始め、フスタートから北へおよそ5キロメートルの地点に野営地を築いた[96]。次の日に施しが行われることが告知され、財源はジャウハルがともに運んできた財貨から賄われた。軍隊のカーディーであるアリー・ブン・アル=ワリード・アル=イシュビーリーによって金銭が貧しい人々に施された。7月9日、ジャウハルはフスタートのアムル・ブン・アル=アース・モスクで行われた金曜礼拝を主導した。そこでスンニ派の説教師はアリー家の白の衣装に身を包んでメモにある馴染みのない文言を読み、フトバ(説教)をムイッズの名において朗誦した[29][96][注 8]。
注釈
- ^ カルマト派は最終的にファーティマ朝を誕生させたイスマーイール派と同じ地下運動に起源を持っているものの、後に初代のファーティマ朝のカリフとなるアブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフが導入した革新的な教義を受け入れず、899年にその一派から離脱した[25][26]。同時代のイスラーム教徒による史料と一部の現代の学者はカルマト派がファーティマ朝と秘密裏に連携して攻撃していたと考えているが、この考えは反証を挙げられている[27]。ファーティマ朝は各地に散在するカルマト派の共同体にファーティマ朝の指導的な地位を認めさせようといくつかの試みを実行に移した。これらの試みは一部の地域では成功したものの、バフライン(東アラビア)のカルマト派は頑なに認めることを拒否した[28]。
- ^ サハラ以南との貿易、鋳造前の金の輸入、およびファーティマ朝の財政慣行がもたらした影響についての議論は、Brett 2001, pp. 243–266を参照のこと。
- ^ 宗派の勢力を拡大させることを目的とした国家組織の存在はファーティマ朝に独特なものであった。このような組織の存在はファーティマ朝によるイスラーム世界の統一を目指す活動の一環であるだけではなく、少数派であるイスマーイール派が教勢を維持するために継続的な教宣活動が必要であったことを示すものであると考えられている[59]。
- ^ 968年にシチリア島の総督のアフマド・ブン・アル=ハサン・アル=カルビーがエジプトへの遠征に向かう一部の海軍を率いるために家族とその財産とともに呼び戻された。アフマドは30隻の船とともにタラーブルスに到着したが、その後すぐに病に倒れて死去した[49]。史料では実際の征服時における海軍の活動については言及されておらず、征服から最も近い時点でイフリーキヤからエジプトに到着したファーティマ朝の艦隊についての言及がみられるのは972年の6月もしくは7月になってからである[71][72]。
- ^ 地元のイスラーム教徒はスンニ派が圧倒的に多数派であったにもかかわらず、アシュラーフ(ムハンマドの親族に連なる家系であると主張する人々)はエジプトで例外的に高い立場を享受し、アシュラーフの著名な人物はしばしば政治的な争いの調停役として求められた[79]。ファーティマ朝は地元住民と一体となったその影響力だけでなく、メッカとマディーナにいる近縁者のアシュラーフによって支配者の地位を認められることが重要であったために、積極的にアシュラーフの関与を求め、イスラーム世界における正当な指導者の地位に関するファーティマ朝の主張への後押しを得ようと注意を払っていた[80]。
- ^ この時のアマーンの文章は同時代のエジプトの歴史家であるイブン・ズーラーク(997年没)によって記録された。アマーンの詳細と、主として目撃者の証言からなるファーティマ朝による征服と最初の数年間の支配に関するイブン・ズーラークの記録は、イブン・サイード・アル=マグリビー、マクリーズィー、そしてイドリース・イマードゥッディーンなどによる、後の時代のほとんどすべての説明の基礎史料となっている[83][84]。マクリーズィーの引用によって伝えられているアマーンの文章については、Jiwa 2009, pp. 68–72を参照のこと。
- ^ ファーティマ朝の色はアッバース朝の黒とは対照的に白であったが、他に赤と黄色の旗がカリフ個人と結びつく形で存在していた。特定の重要な行事でカリフは赤い衣装に身を包み、両側には赤と黄色の旗が掲げられていたと考えられている[93]。
- ^ 近代以前の中東地域では、フトバで支配者の名前を読み上げることは支配者の持つ二つの特権のうちの一つであった(もう一つは硬貨を鋳造する権利)。フトバにおける名前の言及は支配者の統治権と宗主権を受け入れることを意味し、イスラーム世界の支配者にとってこれらの権利を示す最も重要な指標と見なされていた[97]。反対にフトバで支配者の名前を省くことは公に独立を宣言することを意味していた。また、重要な情報伝達の手段でもあるフトバは、支配者の退位と即位、後継者の指名、そして戦争の開始と終結を宣言する役割も担っていた[98]。
- ^ ファーティマ朝の宮廷がエジプトに移ったことで、結果として急速にイフリーキヤとシチリアに対する実質的な支配が失われた。その後の数十年でズィール朝とカルブ朝が事実上独立し、ファーティマ朝と敵対するまでになった[139]。
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