ファーティマ朝のエジプト征服
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イフシード朝政権の崩壊
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968年4月にカーフールが後継者を定めることなく死去したことで、イフシード朝政権は機能不全の状態に陥った[40]。イフシードの娘と結婚し、息子が統治者の地位を継承する希望を抱いていたカーフールの宰相(ワズィール)のジャアファル・ブン・アル=フラートは[41]、権力の掌握を試みたものの官僚層以外の支持基盤を欠いていた。一方で軍は互いに対立する派閥に分裂した(主にイフシードによって取り立てられたイフシーディーヤとカーフールによって取り立てられたカーフーリーヤ)[42][43]。軍の指導者たちは自らの派閥からカーフールの後継者を立てることを望んでいたが、イフシード家と民衆、そして宗教勢力の有力者による反対に直面して撤回を強いられた[44]。
最初にさまざまな派閥間でイフシードの11歳の孫のアブル=ファワーリス・アフマド・ブン・アリーを名目上の統治者として擁立し、その叔父でパレスチナ総督のアル=ハサン・ブン・ウバイドゥッラーが摂政、ジャアファル・ブン・アル=フラートがワズィール、そして奴隷兵(グラーム)出身のシャムール・アル=イフシーディーが軍の最高司令官として権力を分担することで合意が成立した[43]。しかしながら、イフシード朝の支配層における個人や派閥間の対抗意識が表面化したことで、合意はすぐに破綻した。イフシーディーヤを率いていたニフリール・アッ=シュワイザーンとカーフーリーヤを率いていたファナクが衝突した結果、ファナクとその部下がパレスチナのラムラまで逃亡した出来事に見られるように、シャムールには軍に対するあらゆる実効的な権力が欠けていた。一方でジャアファル・ブン・アル=フラートは政敵の拘束の乗り出し、それによって実質的に政府、さらには決定的な問題として徴税の機能を停止させた[45]。摂政のアル=ハサン・ブン・ウバイドゥッラーは11月にパレスチナからエジプトに到着してフスタートを占領し、ジャアファル・ブン・アル=フラートを投獄した。しかし権力を確立する試みは失敗に終わり、969年の初めに首都を放棄してパレスチナへ戻った。そしてエジプトは実質的な無政府状態のまま残された[46][47]。
歴史家のヤーコフ・レフは、このような行き詰まりに直面したエジプトの支配層には「外部の介入を求める選択」だけが残されたと記している。当時の国際情勢を踏まえると、ファーティマ朝のみがその選択可能な対象であった。複数の中世の史料では、民間と軍事指導者からの書簡がイフリーキヤのファーティマ朝のカリフであるアル=ムイッズ・リッ=ディーン・アッラーフ(在位:953年 - 975年)のもとへ送られたと記録されている。イフリーキヤではエジプトへの新たな侵攻の準備がすでに本格化していた[47]。
注釈
- ^ カルマト派は最終的にファーティマ朝を誕生させたイスマーイール派と同じ地下運動に起源を持っているものの、後に初代のファーティマ朝のカリフとなるアブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフが導入した革新的な教義を受け入れず、899年にその一派から離脱した[25][26]。同時代のイスラーム教徒による史料と一部の現代の学者はカルマト派がファーティマ朝と秘密裏に連携して攻撃していたと考えているが、この考えは反証を挙げられている[27]。ファーティマ朝は各地に散在するカルマト派の共同体にファーティマ朝の指導的な地位を認めさせようといくつかの試みを実行に移した。これらの試みは一部の地域では成功したものの、バフライン(東アラビア)のカルマト派は頑なに認めることを拒否した[28]。
- ^ サハラ以南との貿易、鋳造前の金の輸入、およびファーティマ朝の財政慣行がもたらした影響についての議論は、Brett 2001, pp. 243–266を参照のこと。
- ^ 宗派の勢力を拡大させることを目的とした国家組織の存在はファーティマ朝に独特なものであった。このような組織の存在はファーティマ朝によるイスラーム世界の統一を目指す活動の一環であるだけではなく、少数派であるイスマーイール派が教勢を維持するために継続的な教宣活動が必要であったことを示すものであると考えられている[59]。
- ^ 968年にシチリア島の総督のアフマド・ブン・アル=ハサン・アル=カルビーがエジプトへの遠征に向かう一部の海軍を率いるために家族とその財産とともに呼び戻された。アフマドは30隻の船とともにタラーブルスに到着したが、その後すぐに病に倒れて死去した[49]。史料では実際の征服時における海軍の活動については言及されておらず、征服から最も近い時点でイフリーキヤからエジプトに到着したファーティマ朝の艦隊についての言及がみられるのは972年の6月もしくは7月になってからである[71][72]。
- ^ 地元のイスラーム教徒はスンニ派が圧倒的に多数派であったにもかかわらず、アシュラーフ(ムハンマドの親族に連なる家系であると主張する人々)はエジプトで例外的に高い立場を享受し、アシュラーフの著名な人物はしばしば政治的な争いの調停役として求められた[79]。ファーティマ朝は地元住民と一体となったその影響力だけでなく、メッカとマディーナにいる近縁者のアシュラーフによって支配者の地位を認められることが重要であったために、積極的にアシュラーフの関与を求め、イスラーム世界における正当な指導者の地位に関するファーティマ朝の主張への後押しを得ようと注意を払っていた[80]。
- ^ この時のアマーンの文章は同時代のエジプトの歴史家であるイブン・ズーラーク(997年没)によって記録された。アマーンの詳細と、主として目撃者の証言からなるファーティマ朝による征服と最初の数年間の支配に関するイブン・ズーラークの記録は、イブン・サイード・アル=マグリビー、マクリーズィー、そしてイドリース・イマードゥッディーンなどによる、後の時代のほとんどすべての説明の基礎史料となっている[83][84]。マクリーズィーの引用によって伝えられているアマーンの文章については、Jiwa 2009, pp. 68–72を参照のこと。
- ^ ファーティマ朝の色はアッバース朝の黒とは対照的に白であったが、他に赤と黄色の旗がカリフ個人と結びつく形で存在していた。特定の重要な行事でカリフは赤い衣装に身を包み、両側には赤と黄色の旗が掲げられていたと考えられている[93]。
- ^ 近代以前の中東地域では、フトバで支配者の名前を読み上げることは支配者の持つ二つの特権のうちの一つであった(もう一つは硬貨を鋳造する権利)。フトバにおける名前の言及は支配者の統治権と宗主権を受け入れることを意味し、イスラーム世界の支配者にとってこれらの権利を示す最も重要な指標と見なされていた[97]。反対にフトバで支配者の名前を省くことは公に独立を宣言することを意味していた。また、重要な情報伝達の手段でもあるフトバは、支配者の退位と即位、後継者の指名、そして戦争の開始と終結を宣言する役割も担っていた[98]。
- ^ ファーティマ朝の宮廷がエジプトに移ったことで、結果として急速にイフリーキヤとシチリアに対する実質的な支配が失われた。その後の数十年でズィール朝とカルブ朝が事実上独立し、ファーティマ朝と敵対するまでになった[139]。
出典
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