ヒジュラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 10:24 UTC 版)
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ヒジュラ(アラビア語: هِجْرَة, hijrah ないしは hijra)は、622年にイスラームの預言者であるムハンマドと彼に従うムスリムがマッカからマディーナへ移住した出来事である。日本語では聖遷とも呼称される。
マッカでイスラームの布教を行っていたムハンマドと彼に従うムスリムは、クライシュ族などのマッカの住民から迫害を受けていた。一方、マッカの北方にあるヤスリブ(現在のマディーナ)は何十年にも渡る部族間抗争で疲弊しており、強力な調停者を必要としていた。620年に6人のヤスリブの住民がイスラームに改宗したことをきっかけにヤスリブのイスラーム化が進み、武力をもってムハンマドとイスラームを守る誓いも行われた。622年、ムハンマドはヤスリブより調停者として招待を受け、ムハンマドは70人余りのムスリムをヤスリブに移住させた後に、アブー・バクルと共に自らも移住した。
ヒジュラによってイスラーム共同体であるウンマが形成され、これは後のイスラーム社会や国家の原型となった。また、2代目正統カリフであるウマル・イブン・ハッターブによって定められたヒジュラ暦の起点にもなった。
なお、「マディーナ」はヒジュラ後に名付けられた都市名であるため、本稿ではヒジュラが行われて改名されるまでは旧称である「ヤスリブ」と表記する。
注釈
- ^ これは「第一のヒジュラ」とも呼ばれる[13]。
- ^ この時代のアラビアにおいて、氏族からの保護を失うことは生命の安全すら保障されないことを意味していた[18]。
- ^ ムトイムがムハンマドにジワールを与えたこと理由について嶋田 (1977)は、ムトイムがムハンマドに好感を抱いており、また、ナウファル家がハーシム家と深い血縁関係にあったためと推測している[20]。
- ^ 620年にイスラームに改宗した6人は「我々は憎悪と遺恨のために内部分裂している。神はあなたを通して統一してくださるであろう」とムハンマドに語ったという[24]。
- ^ 当時のアラビアの貧しい家庭には、女児が生まれると、これを間引く習慣があった[27]。
- ^ この誓いは「婦人の誓い」や「女性の誓い」とも呼ばれる。このように呼ばれる所以について、イブン・イスハーク (2010)の訳注では不明であるとされている一方で[30]、小杉 (2002)は、戦闘義務がなかった女性をも拘束する誓いという意味であるとしている[29]。
- ^ ヤスリブでイスラームが受け入れられた理由について、小杉 (2002)は、ヤスリブにはユダヤ教徒が多く一神教に慣れていたことや、多神教徒の信仰心がマッカに比べてはるかに弱かったためであると推測している[31]。
- ^ これまでムハンマドは啓示によってどんな迫害にも忍耐を持って耐えるよう命じられていたが、戦闘を許可する旨の啓示が下ったためこの誓いが可能になったとされる[35]。
- ^ 後藤 (1980a)は、指導者が12人選ばれた理由について、イエス・キリストの十二使徒が意図されたとしている。指導者たちはヤスリブの改宗運動の指導的立場にあった[37]。
- ^ 夫から引き離されたウンム・サラマは1年もの間、朝から晩まで泣き暮らす日々を送ったという。これを哀れんだ親族によって彼女は移住を許可され、息子と共に移住した[43][42]。なお、その後アブー・サラマは戦死し、ウンマ・サラマはムハンマドの妻となった[39]。
- ^ この理由についてMuir (1858a)は、ヤスリブが彼を受け入れる準備が整い、また、彼を守るというヤスリブ側の約束が実行されるという保証を得るまで出発を延期したかったためだと推測している[54]。
- ^ 『預言者ムハンマド伝』では天使ジブリールからの忠告があったとされている[64]。
出典
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