ハッテラス入り江砲台の戦い ハッテラス入り江砲台の戦いの概要

ハッテラス入り江砲台の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/12 05:10 UTC 版)

ハッテラス入り江砲台の戦い
Battle of Hatteras Inlet Batteries
南北戦争

ハッテラス入江岬の砦占領
by Alfred R. Waud、1861年8月28日
1861年8月28日-29日
場所ノースカロライナ州アウター・バンクス、ハッテラス岬近く
結果 北軍の勝利
衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
サイラス・H・ストリンガム
ベンジャミン・バトラー
サミュエル・バロン
ウィリアム・F・マーティン
戦力
軍艦7隻、兵士880名 ハッテラス島守備隊(900名)
被害者数
負傷3 戦死4-7、負傷20-45、捕虜691

この戦闘は幾つかの理由で重要である。これは南北戦争の北軍では初めての意義有る勝利だった。1861年7月21日に行われた第一次ブルランの戦い(別名第一次マナサスの戦い)での敗北の後、開戦当初に重たい雰囲気にあった北軍支持者を勇気づけた。これは海軍による封鎖戦略の最初の適用例だった。アメリカ陸軍アメリカ海軍の部隊を巻き込む最初の水陸協働作戦であり、最初の統合作戦だった。最後に砲撃艦隊による新しい戦術が採用された。艦隊は動き続けることで、艦船の大砲に対する陸の大砲の伝統的な優位をほとんど排除した。

南軍が守るハッテラス入江

ノースカロライナ州のサウンドはポイント・ルックアウトからバージニア州との州境まで海岸の大半を占めている。その東の境界はアウターバンクスであり、北部の海洋交易を襲撃するにはほぼ理想的な位置にあった。南軍の東端にあたるハッテラス岬は、この緯度では約3ノット (1.5 m/s) の速度で流れるメキシコ湾流が見える位置にある[1]カリブ海で交易する船舶は、ニューヨークフィラデルフィアあるいはボストンに帰るときに、この北へ向かう流れに乗って所要時間を短縮できる。襲撃者は私掠船であっても州が所有する船であっても、アウターバンクスの中におれば気象や北軍の封鎖戦隊から守られ、防御力のない犠牲者が現れるのを待てば良かった。ハッテラス灯台に駐在した見張り番からの合図で襲撃者は飛び出して捕獲に向かい、多くはその日のうちに帰還することができた[2]

北軍の反撃から襲撃者を守るために、ノースカロライナ州はアメリカ合衆国から脱退した直後に、サウンドからの出入りが可能な水路に面した入江に砦を建設した。1861年、外洋航海が可能な船舶が航行可能な水深のある入江は4箇所、ボーフォート[3]、オクラコーク、ハッテラスおよびオレゴンの各入江だった。その中でもハッテラス入江は重要であり、ハッテラス砦とクラーク砦という2つの砦が配された[4]。ハッテラス砦は入江に近接し、ハッテラス島のサウンド側にあった。クラーク砦は約半マイル (800 m) 南東で、大西洋に近かった。これらの砦は強固では無かった。ハッテラス砦には8月末に据えられた10門の大砲があるだけであり、他に5門の大砲は据えられていなかった。クラーク砦には5門の大砲があるだけだった[5]。さらに、大砲の大半はやや軽量の32ポンド砲以下であり、射程が限られ、海岸の防衛には不適切だった。

人的資源の問題はさらに悪かった。ノースカロライナ州では南北戦争で22個の歩兵連隊を起ち上げ装備させたが、そのうち16個連隊はバージニア州での作戦に引き抜かれていた。残された6個連隊でノースカロライナ州の海岸線全てを守る必要があった。第7ノースカロライナ志願連隊のわずかな部隊のみがハッテラス入江の2つの砦に入った。他の砦も同様にわずかな兵力で守った。オクラコーク、ハッテラス、クラークおよびオレゴンの各砦あわせても1,000名足らずだった。援軍が必要になれば、遙か遠いボーフォートから送るしかなかった[6]

奇妙なことにノースカロライナ州軍当局はその守備のお粗末な状態を秘密にしておく努力をほとんど払わなかった。捕獲されたり難破して犠牲となった北軍の船長数人は、故郷へ帰るのを待つ間にハッテラス島かその近くで緩やかに拘束されただけだった。彼等は事実上砦に自由に接近することを許され、あらゆることを記憶にしまった。北部に帰ると少なくともそのうちの2人は十分に貴重な情報を海軍省にもたらした[7]

北部の反応

ハッテラス入江から発する北部商船に対する略奪行為は気付かずに過ごされるわけには行かなかった。保険業者は海軍長官ギデオン・ウェルズに救済策を要求した[8]。ウェルズは催促を必要としなかった。既に封鎖戦略委員会からの報告書でノースカロライナ州海岸の封鎖を完全にする方法が提案されていた。委員会は古い使用に耐えない船舶に底荷を積み、入江に沈めて封鎖することで南部の海岸を使用できなくする方法を推薦した(その報告書には容易に見逃される文章も入っていた。いわく「これらの計画はその遂行を委ねられた人の手によっていくらか修正されてもよい」)[9]

ウェルズ長官は委員会報告書を受け取って間もなく、その推薦案の実行に取り掛かった。H・S・ステルワーゲン海軍中佐にチェサピーク湾に行って適当な古い船を購入するよう命令した。それと同時に、大西洋封鎖戦隊指揮官サイラス・H・ストリンガム海軍将官にその行動を報告するように言った。こうしてストリンガムはノースカロライナ州海岸封鎖の任にあたる海軍士官になった。これがハッテラス入江の攻撃になるものに対するストリンガムの最初の関与だった。そのうちにストリンガムはこの遠征で最も重要な人物になった。

ストリンガムは初めから入江を封鎖する計画に反対した。潮流が障害物を洗い出してしまうかあるいは直ぐに新しい水路を造ってしまうと考えた。ストリンガムが想像した様に、入江が北軍によって実際に支配されなければ、南軍はサウンドへの行き来を止められなかった。換言すれば、ノースカロライナ州のこの地域に実効ある封鎖を行うためには、ノースカロライナ州が造った砦を占領する必要があるということだった。海軍は単独でそれを実行できなかったので、陸軍との協働作戦が必要だった。

陸軍は実際にそうなったように喜んで協力した。陸軍は、処遇しなければならない政治力があるが、すでに軍事的には無能と分かっていた(歴史家の間でも事実上全員一致で同意されている)政治家将軍ベンジャミン・バトラーをどうにかする必要があった。バトラーはこの遠征のために800名ほどの兵士を集めるよう命じられた。バトラーは間もなく880名を集めた。ドイツ語を話す第20ニューヨーク志願連隊から500名、第9ニューヨーク志願連隊から220名、沿岸警備隊から100名(陸軍の部隊、実際には第99ニューヨーク志願連隊[10]、現在の沿岸警備隊は当時存在せず)、および第2アメリカ砲兵隊から正規兵20名[11]だった。これら兵士はステルワーゲン海軍中佐が購入した2隻の船、アデレードジョージ・ピーボディに乗せられた。この2隻はハッテラスの嵐に耐えられないだろうという反対の声には、ステルワーゲンが、嵐なら上陸も出来ないだろうから、この遠征は晴れた日にのみ進行できると指摘した[12]

バトラーが部隊を集めている間、海軍将官ストリンガムも準備をしていた。ストリンガムは、陸軍省がバトラーの上官であるジョン・E・ウール少将に「この遠征計画は海軍省で作られており、その統制下にある」という文章を含む命令を発したことを知った[13]。ストリンガムは何かまずいことがあれば非難されることになると考え、自分の作戦を遂行することに決めた。この遠征には7隻の艦船を選んだ。すなわち、USSミネソタ、USSカンバーランド、USSサスケハナ、USSウォバシュ、USSポーニー、USSモンティチェロおよびUSSハリエットレーンだった。ハリエットレーンは国税局のカッターであり、それ以外は全てアメリカ海軍の艦船だった[14]。ストリンガムは上陸のために使う磯船を牽引するときに必要なタグボートUSSファニーもその部隊に含めた[15]

1861年8月26日サスケハナカンバーランドを除く戦隊はハンプトン・ローズを出港して、ハッテラス岬近辺まで回航した。その途中でカンバーランドと合流した。戦隊は8月27日に岬を回り込み、守備隊が十分に見える入江近くで停泊した。ハッテラス砦とクラーク砦を指揮する第7ノースカロライナ歩兵連隊のウィリアム・F・マーティン大佐はその580名の部隊では援軍が必要なことを理解したので、オクラコーク砦とオレゴン砦からの援兵を要求した。マーティンとその守備隊にとって不幸なことに、砦間の通信は時間が掛かり、最初の援兵が到着した翌日遅くでは時既に遅かった。


  1. ^ Maury, The physical geography of the sea, p. 27.
  2. ^ Trotter, Ironclads and Columbiads, pp. 21–24.
  3. ^ Pronounced BOW-fort in North Carolina; the name of the town in South Carolina is pronounced BYOO-fort.
  4. ^ Henry T. Clark was Governor of North Carolina; see Trotter, Ironclads and Columbiads, p. 16.
  5. ^ ORA I, v. 4, p. 584. But see p. 591, where the number of mounted guns in Fort Hatteras is stated to be 12.
  6. ^ Trotter, Ironclads and Columbiads, p. 19.
  7. ^ ORN I, v. 6, pp. 78–80.
  8. ^ ORN I, v. 6, pp. 77–78.
  9. ^ ORN I, v. 12, pp. 198–201.
  10. ^ ORA III, v. 1, p. 961.
  11. ^ ORA I, v. 4, p. 581.
  12. ^ ORN I, v. 6, p.109.
  13. ^ ORA I, v. 4, p. 580.
  14. ^ Predecessor of the US Coast Guard.
  15. ^ ORN I, v. 6, p. 120.
  16. ^ ORN I, v. 6, p. 121.
  17. ^ a b ORA I, v. 4, p. 589.
  18. ^ ORN I, v. 6, p. 123.
  19. ^ Trotter, Ironclads and Columbiads, p. 38.
  20. ^ ORA I, v. 4, pp. 592–594.
  21. ^ Trotter, Ironclads and Columbiads, p. 40.
  22. ^ National Park Service, The American Civil War


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