ドゥル・シャルキン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/17 09:24 UTC 版)
都市の詳細
ドゥル・シャルキンは1758.6メートル×1635メートルの長方形をしており、城壁内は3平方キロメートル(288ヘクタール)の面積を持つ。市壁の長さはアッシリアの単位で16280であり、サルゴン2世自身が残した記録によれば、これは彼の名前の「数」(the numerical value of his name)と対応していた[7]。巨大な市壁には157の塔が付属し、側面を防御していた。各方向に門があり、ドゥル・シャルキン全体で7つあった。壁で囲われたテラスには神殿群と王宮があり、主な神殿はナブー、シャマシュ、シンといった神々に捧げられていた。また、アダド、ニンガル、そしてニヌルタに捧げられた小規模な社(shrines)があった。またジッグラトと呼ばれる階段状の塔が神殿に建設されていた。宮殿は彫刻と壁面のレリーフで装飾されており、門には最大で40トンに達する人頭有翼雄牛像ラマス(シェドゥ)が並べられていた。少なくとも1基のラマス像が事故のため川で失われたと考えられている。
このドゥル・シャルキンに加えて、王のための狩猟園と「ハッティ[8] の全ての香しき草木と、あらゆる山の果樹」がある庭園が備えられ、ロビン・レイン・フォックスはこの庭園には「権力と征服の記録」があったとした[9]。実際にマルメロ、アーモンド、リンゴ、セイヨウカリンといった数千もの若い果樹の運搬に関わる記録が残されている[10]。
「サルゴンの庭園の中央の運河には列柱を持つ歓楽のパビリオン(pleasure-pavilion)が立ち、周囲の壮大な人工の丘を見上げていた。この丘はアッシリアの王たちを驚嘆させた外国の風景、北シリアのアマヌス(ヌール)山脈をモデルにしており、スギとイトスギが植えられていた。彼らはこの平地の宮殿で、彼らが目にした山のレプリカを建設した[11]」。
- ^ 渡辺 1998, p. 338
- ^ a b c d Radner 2012.
- ^ a b c Mark 2014.
- ^ Frahm, Eckart (2008). “The Great City: Nineveh in the Age of Sennacherib”. Journal of the Canadian Society for Mesopotamian Studies 3: 13–20.
(「カナダメソポタミア研究協会誌」第3巻(2008年)p.13-20に収録されている『偉大な都市:センナケリブ時代のニネヴェ』(著:エッカート・フラーム)) - ^ Marc Van De Mieroop, A History of the Ancient Near East ca. 3000 - 323 BC, (Wiley-Blackwell) 2006, ISBN 1-4051-4911-6
(『古代近東の歴史:紀元前3000年~紀元前323年』(マーク・ヴァン・デ・ミエロープ、2006年、ウィリー・ブラックウェル出版(米国)) - ^ a b “Ancient site Khorsabad attacked by Islamic State: reports”. Toronto Star (2015年3月8日). 2015年3月8日閲覧。
(『レポート:ISに攻撃されたホルサバードの古代遺跡』(2015年3月8日、トロント・スター(カナダの新聞))) - ^ Andreas Fuchs, Die Inschriften Sargons II. aus Khorsabad, 42:65; 294f, 1994, Cuvillier.
(『ホルサバード出土のサルゴン2世の碑文』(著:アンドレアス・フックス、1994年、キュビリエ出版(ドイツ)))
エッカート・フラーム(Eckart Frahm)による次の議論を参照。"Observations on the Name and Age of Sargon II and on Some Patterns of Assyrian Royal Onomastics," NABU 2005-2.44
(『サルゴン2世の名前と時代、アッシリア王家の姓名に関する考察』(『簡潔・有用なアッシリア学ニュース』(Nouvelles Assyriologiques Brèves et Utilitaires)、2005年・第2回、44ページ)) - ^ ハッティ(Hatti)はこの文脈では新ヒッタイト諸王国が支配していたユーフラテス川より西方の領域全体を指す
- ^ Daniel David Luckenbill, Ancient Records of Assyria and Babylonia, vol II:242, quoted in Robin Lane Fox, Travelling Heroes in the Epic Age of Homer 2008, pp26f.
(『ホメロスの叙事詩時代の英雄を旅する』(著:ロビン・レイン・フォックス、2008年)p26で引用されている『アッシリアとバビロニアの古代の記録』(著:ダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル)第2巻p.242) - ^ Lane Fox 2008:27; texts are in Luckenbill 1927:II.
(『ホメロスの叙事詩時代の英雄を旅する』(著:ロビン・レイン・フォックス、2008年)p27) - ^ Lane Fox 2008:27, noting D. Stronach, "The Garden as a political statement: some case-studies from the Near East in the first millennium BC", Bulletin of the Asia Institute 4 (1990:171-80). The garden mount first documented at Dur-Sharrukin was to have a long career in the history of gardening.
(『ホメロスの叙事詩時代の英雄を旅する』(著:ロビン・レイン・フォックス、2008年)p27で言及している『政治メッセージとしての庭園:紀元前一千年紀の近東におけるケーススタディ』(アジア学会会報 第4号(1990年)p.171~180に収録)より。ドゥル・シャルキンで初めて記録された庭園は、庭園史において長い歴史を持つ) - ^ Massimo Cultraro, Francesco Gabellone, Giuseppe Scardozzi, Integrated Methodologies and Technologies for the Reconstructive Study of Dur-Sharrukin (Iraq), XXI International CIPA Symposium, 2007
(『ドゥル・シャルキンの復元研究に関する方法論と科学技術の統合』(著:マッシモ・クルトラーロ、フランセッソ・ガベッローネ、ジュゼッペ・Scardozzi、2007年、建築写真測量国際委員会シンポジウム)) - ^ Paul Emile Botta and Eugene Flandin, Monument de Ninive, in 5 volumes, Imprimerie nationale, 1946-50
(『ニネヴェの遺跡』(全5巻)(著:ポール=エミール・ボッタ、ウジェーヌ・フランダン、1946~1950年、フランス政府出版局)) - ^ Eleanor Guralnick, New drawings of Khorsabad sculptures by Paul Émile Botta, Revue d'assyriologie et d'archéologie orientale, vol. 95, pp. 23-56, 2002
(『新たに発見された、ポール=エミール・ボッタによるホルサバードの彫刻の新たなスケッチ』(著:エレノア・グラルニック、2002年、「アッシリア学・オリエント考古学専門誌」第95号、p23-56に収録)) - ^ Victor Place, Nineve et l'Assyie, in 3 volumes, Imprimerie impériale, 1867–1879
(『ニネヴェとアッシリア』(全3巻)(著:ヴィクター・プレイス、1867年~1879年)) - ^ Joseph Bonomi, Ninevah and Its Palaces: The Discoveries of Botta and Layard, Applied to the Elucidation of Holy Writ, Bohn, 1957 (2003 Reprint, Gorgias Press LLC, ISBN 1-59333-067-7)
(『ニネヴェとその宮殿:ボッタとレイヤードの発見、聖書分析への応用』(著:ジョセフ・ボノミ、1957年、2003年にゴルギアス出版(米国)から再版)) - ^ Robert William Rogers, A history of Babylonia and Assyria: Volume 1, Abingdon Press, 1915
(『バビロニアとアッシリアの歴史』(著:ロバート・ウィリアム・ロジャー、1915年、アビンドン出版(米国)) - ^ [1] OIC 16. Tell Asmar, Khafaje and Khorsabad: Second Preliminary Report of the Iraq Expedition, Henri Frankfort, 1933
(OIC(Oriental Institute Communications:東洋研究所通信(シカゴ大学))第16号 『テル・アスマル、ハファージェとホルサバード:イラク探検の第2回速報』(著:ヘンリ・フランクフォート、1933年));
[2] OIC 17. Iraq Excavations of the Oriental Institute 1932/33: Third Preliminary Report of the Iraq Expedition, Henri Frankfort, 1934
(OIC(Oriental Institute Communications:東洋研究所通信(シカゴ大学))第17号 『イラク探検の第3回速報』(著:ヘンリ・フランクフォート、1934年));
[3] Gordon Loud, Khorsabad, Part 1: Excavations in the Palace and at a City Gate, Oriental Institute Publications 38, University of Chicago Press, 1936
(『ホルサバード 第1部 宮殿と市門の発掘』(著:ゴードン・ラウド、1936年、東洋研究所出版第38号、シカゴ大学出版));
[4] Gordon Loud and Charles B. Altman, Khorsabad, Part 2: The Citadel and the Town, Oriental Institute Publications 40, University of Chicago Press, 1938
(『ホルサバード 第2部 城塞と街』(著:ゴードン・ラウド、1936年、東洋研究所出版第38号、シカゴ大学出版)) - ^ 関根 (1964) pp.126-127
- ^ Fuad Safar, "The Temple of Sibitti at Khorsabad", Sumer 13 (1957:219-21).
(『シュメール』(アラブ世界の考古学・歴史雑誌、編:イラク政府古代文化財省)第13巻(1957年)p.219-221に収録されている『シビッティとホルサバードの神殿』(著:フアド・サファー))
固有名詞の分類
- ドゥル・シャルキンのページへのリンク