シント・マールテン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 05:59 UTC 版)
歴史
「発見」と争奪
この島は、1493年にコロンブスによって「発見」され、サン・マルティン島(スペイン語: Isla de San Martín)と命名されたが、スペインはこの島への植民を重要視しなかった。島に注目をしたのは、フランスとオランダであった。オランダ人たちは、ニューアムステルダムとブラジルの中間に拠点を欲していたのである。
1631年、オランダ人たちは町とアムステルダム砦 (Fort Amsterdam (Sint Maarten)) を築いた。島の人口は少なかったため、拠点建設は容易に進んだ。Jan Claeszen Van Campen が最初の総督になり、間もなくオランダ西インド会社が塩鉱の経営に乗り出した。同様にフランス人やイギリス人の植民者も進出した。かれらが塩の交易に成功すると、スペインもこの島の価値に気づくようになった。当時、スペインとオランダは八十年戦争を繰り広げており、この島にも戦火は及んだ。
1633年、スペインがオランダから島を奪取し、入植者たちのほとんどを追放した (Capture of Saint Martin (1633)) 。スペインは Point Blanche に砦を建設している。オランダはその後たびたびセント・マーチン島の奪回を図ったが、すべて失敗に終わっている。のちにニューネーデルラント総督を務めることになるピーター・ストイフェサントは、1644年にセント・マーチン島への攻撃を指揮するも、片足を失っている (Attack on Saint Martin) 。スペインによる占領から15年後の1648年、八十年戦争は終結するが、このころにはスペインはカリブ海の拠点経営に関心を失っており、セント・マーチン島も放棄された。
フランスとの分割
空白となった島に、オランダとフランスが再び植民に乗り出した。オランダはシント・ユースタティウス島から、フランスはセントキッツ島から、それぞれ植民者を島に送り込んだ。この過程で衝突も発生し、相手が容易に退かないことを知った双方は、全面戦争に突入することを避けるべく、1648年にコンコルディア条約 (Treaty of Concordia) に署名して島を二分した。その後、イギリスが島の支配を図り、フランス・オランダと激しく争うこととなった。1648年から1816年にかけて、持ち主の交替は16度も生じている。現在の状況が確定したのは、1815年のパリ条約である。
オランダ領「シント・ユースタティウス植民地」の一部となったシント・マールテンは、その後「西インド植民地」の一部となった時期を経て、1845年以降ほかのカリブ海地域のオランダ領とともに「キュラソー植民地」の一部となり、キュラソー島ウィレムスタットの総督の管轄下に置かれた。
島には多くの奴隷が移入された。最初に島へ奴隷を連れてきたのはスペイン人たちであったが、プランテーションでタバコや綿花が栽培されるようになると、移入され労働に従事させられた奴隷の数は膨大なものとなった。オランダ領側で奴隷制度が廃止されたのは1863年で[1]、これはフランス領側に後れること15年であった。
20世紀以後
奴隷制度廃止後、プランテーション経営は衰退し、島の経済も後退した。1939年、シント・マールテンは免税港を宣言し、経済発展に向けて進むようになる[1]。第二次世界大戦後の1948年、キュラソー植民地は「オランダ領アンティル」に名を改めた。1951年制定のオランダ領アンティル島嶼法によって、オランダ領アンティルを構成する島区(eilandgebied)に自治権が与えられるようになった。シント・マールテンを含むSSS諸島の島々はウィンドワード諸島区 (Eilandgebied de Bovenwindse Eilanden) としてまとめられた。1954年にオランダ領アンティルは自治領となった。
1950年代、シント・マールテンでは急速に観光産業が発展した[1]。一つの島がオランダとフランスとに分けられているユニークな地理的状況もあって観光熱は周囲の島々よりも高く、プリンセス・ジュリアナ国際空港(1943年開港)は東カリブで最も利用者の多い空港となった。島全体の人口も5,000人程度から、1990年代半ばには8万人にまで増加した。1983年にはウィンドワード諸島区が分割され、シント・マールテンは単独の島区となった。
オランダ領アンティルの解体要求が高まると、2000年6月23日の住民投票ではオランダ領アンティルに残ることを選んだが、2006年6月1日の投票では脱退の方を選んでいる。2010年10月、オランダ領アンティルは解体された。シント・マールテンは、アルバやキュラソーとともにオランダ本国と対等な、オランダ王国の構成国となった。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “Sint Maarten”. CIA The World Factbook. CIA. 2014年7月17日閲覧。
- ^ “Mullet Pond | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2016年9月9日). 2023年4月20日閲覧。
- ^ “Main political party in St. Maarten secures most seats in Dutch Caribbean territory's elections”. ABCニュース. (2024年1月12日) 2024年1月14日閲覧。
- ^ a b About St.Maarten - シント・マールテン観光局公式サイト - 2012年1月23日閲覧
- ^ Port of St. Maarten
聖マルティヌス
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