ゴドフロワ・ド・ブイヨン エルサレム王国

ゴドフロワ・ド・ブイヨン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/14 10:29 UTC 版)

エルサレム王国

エルサレムの領主に任命されるゴドフロワ・ド・ブイヨン
ギヨーム・ド・ティールの著作 ウトラメールの歴史 の一部分。装飾を施されている段落最初の文字『S』にゴドフロワの選出場面が描かれている。
大英図書館

エルサレムがキリスト勢力下に置かれたのち、聖地における統治体制が構築された。1099年7月22日、聖墳墓教会にて会議が開催された。この際、諸侯らはレーモン4世にエルサレム王への即位を求めたが、彼は拒否した。そして2番手として即位を求められたゴドフロワがそれを快諾したことを受け、ゴドフロワは初代エルサレム統治者となった[21]。しかし彼はエルサレム王と名乗るのを拒否し、自身を聖墳墓守護者英語版と名乗り、またイエス・キリストが荊の冠英語版を被せられた地で黄金の王冠を冠るのは畏れ多いことだとしてそれも拒否したという[22]。ただし彼が名乗った称号の意味や、実際にそのように名乗ったのかどうかについては様々な論争がなされている[4]当時の文献英語版の中には、princeps(第一人者、創立者)というより多義的な称号を用いたと主張する文献もあれば、遠征前から彼が有した公爵の称号をそのまま用い続けたとする文献も存在している。また、十字軍に参加していない歴史家などによって後世に編纂された文献には、Rex、または王 (King) の称号を用いたとの記述が残されている[23][24][25]

ゴドフロワの治世は非常に短いものではあったが、その中で彼はエルサレム王国をエジプトのイスラム勢力のファーティマ朝から守り抜き、同年8月にはアスカロンの戦いで彼らを撃破した。しかし彼は王国の処遇を巡りエルサレム総主教英語版タンゴベルト英語版率いるローマ教会勢力と対立した。またゴドフロワ率いる十字軍はアスカロンの戦いの際にアスカロンを完全に制圧する勢いだったものの、対立するレーモン4世がアスカロンを占領し勢力拡大を図るのを妨害するために、アスカロンをあえて制圧しなかった。ムスリムの手に残されたアスカロンを巡って、その後の王国は長きに渡る抗争をムスリムと繰り広げることとなった。

1100年、ゴドフロワは征服活動によって直接的にエルサレム王国の領地拡大を図ったものの不発に終わった。しかし、1099年の大勝利と続く遠征のおかげで、アッコアスカロンアルスフ英語版ヤッファカエサリアといった多くの諸都市がエルサレム王国の傘下に組み込まれた。しかしこの頃も、ゴドフロワはタンゴベルト総主教と対立を続けた。ただこの対立の原因は明らかとなっていない。タンゴベルトはおそらくエルサレム王国をローマ教皇直属のレーエンに組み込もうと試みていたものとされているが、彼の最大の意図は今も謎とされている。またこの主張の多くはギヨーム・ド・ティールの文献に依拠しているが、この出来事に関する彼の文献の記述は若干の問題をはらんでいるとされている。タンゴベルトがゴドフロワに対してエルサレムとヤッファの統治権をローマ教皇に移譲するよう強制したと主張するのはギヨームのみであり、アーヘンのアルベルト英語版ラルフ・ド・カーン英語版といった他の当時の歴史家たちは皆、タンゴベルトや彼と同盟していたタンクレード公はゴドフロワに対して忠誠を誓い、彼の息子や血縁者のみがエルサレムの統治者の座を継承するものであると承認していたと記述しているからだ。なんにしろ、タンゴベルトの企ては結局水泡に帰した。ゴドフロワが亡くなった際、タンゴベルトはヤッファにおり、当のエルサレムはゴドフロワの家臣により占領され、ゴドフロワの弟ボードゥアンがエルサレム王位を継承すべきだと主張したため、タンゴベルトにはなす術がなかった。タンゴベルト総主教は1100年12月25日、エデッサより馳せ参じたボードゥアンをエルサレム王として認め、自ら彼を戴冠するよう強制され、ボードゥアンはボードゥアン1世としてエルサレム王に即位した。


  1. ^ これにはムスリムもユダヤ教徒も含まれる
  2. ^ Marjorie Chibnall (Select Documents of the English Lands of the Abbey of Bec, Camden (3rd Ser.) 73 (1951) pp. 25–26) followed earlier writers in suggesting that since the names Godfrey and Geoffrey shared a common origin, Godfrey is identical to the Geoffrey of Boulogne who appears in English records, marrying Beatrice, daughter of Geoffrey de Mandeville and that he left behind in England a son, William de Boulogne (adult by 1106, died c. 1169). However, Alan Murray analyzed the argument in detail and concluded that contemporary documents clearly distinguish between the two names, and as there is no evidence for their identity and traditions of the Crusade indicate Godfrey was unmarried and childless, the two must be considered to have been distinct. Geoffrey, the English landholder, was apparently an illegitimate brother of Godfrey, the Crusader.[28]
  1. ^ Riley-Smith 1998, p. 21.
  2. ^ Riley-Smith 1998, pp. 93–97.
  3. ^ Murray 2000, pp. 70–77.
  4. ^ a b Rubenstein 2008, pp. 61–62.
  5. ^ Butler & Burns 2000, p. 93.
  6. ^ Andressohn 1947, p. 95.
  7. ^ "The tomb of Godfrey was destroyed in 1808, but at that time a large sword, said to have been his, was still shown." L. Bréhier, "Godfrey of Bouillon" in The Catholic Encyclopedia (1909).
  8. ^ Asbridge 2004, pp. 92–93.
  9. ^ Asbridge 2004, p. 90.
  10. ^ Asbridge 2004, pp. 84–85.
  11. ^ Asbridge 2004, pp. 94–95.
  12. ^ Asbridge 2004, p. 84.
  13. ^ a b John 2017, p. 186-187.
  14. ^ Golb 1998, p. 123.
  15. ^ Eidelberg 1996, p. 25.
  16. ^ Asbridge 2004, p. 95.
  17. ^ Asbridge 2004, pp. 109–111.
  18. ^ Asbridge 2004, p. 118.
  19. ^ Asbridge 2004, pp. 128–130.
  20. ^ Natasha Hodgson 'Lions, Tigers and Bears: encounters with wild animals and bestial imagery in the context of crusading to the Latin East' Viator (2013)
  21. ^ Asbridge 2004, p. 321.
  22. ^ Porter 2013, p. 18.
  23. ^ Riley-Smith 1979, pp. 83–86.
  24. ^ Murray 1990, pp. 163–178.
  25. ^ France 1983, pp. 321–329.
  26. ^ Ibn al-Qalanisi 1932, p. 51.
  27. ^ Asbridge 2004, pp. 117–118.
  28. ^ Murray 2000, pp. 155–165.


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