ゴドフロワ・シャルル・アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ゴドフロワ・シャルル・アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュの意味・解説 

ゴドフロワ・シャルル・アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/13 00:50 UTC 版)

ブイヨン公ゴドフロワ、ジャン=フランソワ・コルソンフランス語版画、1775年

ゴドフロワ・シャルル・アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュGodefroy-Charles-Henri de La Tour d'Auvergne, 1728年1月26日 パリ - 1792年12月3日 ナヴァール城英語版エヴルー)は、ブルボン朝末期フランスの貴族・廷臣。ブイヨン公爵。1747年から1775年までの長きにわたり、フランス王室侍従長フランス語版の職にあった。

ブイヨン公シャルル・ゴドフロワマリー・シャルロット・ソビェスカの間の長男。1743年11月27日、マルサン伯シャルル=ルイの娘ルイーズ=アンリエット=ガブリエル・ド・ロレーヌフランス語版と結婚。最初の妻と死別後、マリー・フランソワーズ・アンリエット・ド・バナストル(1775年 - 1816年)と再婚している。

七年戦争に従軍して戦功を立て、1748年陸軍少将に昇進。1775年ルイ16世ランスでの戴冠式には王室侍従長として参加した[1]。素行は芳しくなく、オペラ歌手の愛人に入れ込んで3か月で100万リーヴル近くを濫費し、家産を傾けた。1775年侍従長を辞職した際、後任には息子ではなく甥のゲメネ公アンリが選ばれたが、これはゲメネ公が王妃マリー・アントワネットのお気に入りだったためである[2]。1777年、王立彫刻・絵画アカデミー総裁に任命された。

最初の妻との間に4子があった。

  • ジャック・レオポール・シャルル・ゴドフロワ(1746年 - 1802年) - ブイヨン公
  • シャルル・ルイ・ゴドフロワ(1749年 - 1767年) - オーヴェルニュ公
  • ルイ・アンリ(1753年) - アルブレ公
  • 女児(1756年、死産)

引用・脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ ジャン=クリスチャン・プティフィス著、小倉孝誠監修『ルイ十六世(上)』中央公論新社、2008年、P245.
  2. ^ アントニア・フレイザー著、野中邦子訳『マリー・アントワネット(上)』早川書房、2006年、P402。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ゴドフロワ・シャルル・アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ゴドフロワ・シャルル・アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ」の関連用語

ゴドフロワ・シャルル・アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ゴドフロワ・シャルル・アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのゴドフロワ・シャルル・アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS