ゴドフロワ3世 (ルーヴェン伯)とは? わかりやすく解説

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ゴドフロワ3世 (ルーヴェン伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/12 13:06 UTC 版)

ゴドフロワ3世 / ゴットフリート8世
Godefroid III / Gottfried VIII.
ルーヴェン伯
下ロートリンゲン公
在位 1142年 - 1190年

出生 1142年ごろ
死去 1190年8月21日
配偶者 マルガレーテ・フォン・リンブルク
  イマギナ・フォン・ローン
子女 アンリ1世
アルベール
家名 レニエ家
父親 ルーヴェン伯・下ロートリンゲン公ゴドフロワ2世
母親 ルイトガルト・フォン・ズルツバッハ
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ゴドフロワ3世とマルガレーテの結婚
ゴドフロワ3世のシール

ゴドフロワ3世フランス語:Godefroid III, 1142年ごろ - 1190年8月21日)またはゴットフリート8世ドイツ語:Gottfried VIII.)は、ルーヴェン伯、ブラバント方伯およびアントウェルペン辺境伯(3世、在位:1142年 - 1190年)、下ロートリンゲン公(8世、在位:1142年 - 1190年)。


生涯

ゴドフロワ3世はルーヴェン伯・下ロートリンゲン公ゴドフロワ2世とルイトガルト・フォン・ズルツバッハの息子である[1]。領地を継承したときまだ幼児であり(このためdux in cunis(ゆりかごの中の公爵)と呼ばれていた)、何人かのブラバントの貴族が下ロートリンゲン公から独立するためにこれを利用しようとした(グリムベルゲンの戦い、1141年 - 1159年)。

1147年3月30日、ゴドフロワはアーヘンで行われたローマ王コンラート3世の息子ハインリヒ=ベレンガルの戴冠式に出席した。コンラート3世が第2回十字軍に出発すると、1148年に戦争が新たに起こった。コンラート3世の後継者としてフリードリヒ1世が選出されるまで、和平はなかなか実現しなかった。ゴドフロワはリンブルフ公ハインリヒ2世の娘マルガレーテとの結婚により、対立していたこの地域で勢力を持つ両家を結びつけた。

1159年、ゴドフロワはグリムベルゲンの城を焼き払い、グリムベルゲンの領主であったベルトウト家(nl)との戦いを終わらせた。1171年、ゴドフロワはエノーと戦ったが敗北した。1172年にアールスホット伯ゴドフロワ3世からアールスホット伯を購入した。1179年、ゴドフロワは息子アンリ1世フランドル伯フィリップ・ダルザスの姪と結婚させた。

1182年から1184年にかけて、ゴドフロワはエルサレムへの遠征を行った。その間、皇帝フリードリヒ1世はアンリ1世に「ブラバント公」の称号を与えた。ゴドフロワは1190年8月10日か21日に死去した。ゴドフロワは領土を拡大させ、ネデラーの要塞(ヴィルボールデ近く)を建設した。公爵の称号は、シュヴェービッシュ・ハルで開かれた議会(1190年9月)において息子アンリ1世の継承が認められた。

結婚と子女

1158年にリンブルフ公ハインリヒ2世の娘マルガレーテと結婚し[2]、2子をもうけた。

  • アンリ1世(1165年 - 1235年)[3] - 下ロートリンゲン公(1180年 - 1222年)、ルーヴェン伯(1183年 - 1198年)およびブラバント公(1191年 - 1235年)
  • アルベール(1166年 - 1192年) - リエージュ司教(1191年 - 1192年)、1192年にランスで殺害された[4]

2度目にローン伯ルートヴィヒ1世の娘イマギナと結婚し[3]、2子をもうけた。

  • ギヨーム - ペルヴェおよびリュースブルク領主[3]。アンゲラン・ド・オルベの娘マリー・ド・オルベと結婚。
  • ゴドフロワ(1226年没) - 1196年にイングランドへ渡り、アイ英語版のセネシャルとなった。エセックスのリトル・イーストン男爵ロバート・ド・ヘイスティングス(1190年頃没)の娘で女子相続人のアリス・ド・ヘイスティングスと結婚し[5]、以下の1男をもうけた。
    • マシュー・オブ・ロヴェイン(1202年頃 - 1258年6月1日) - リトル・イーストン領主、アイのセネシャル

脚注

  1. ^ Theuws & Roymans 1999, p. 331.
  2. ^ Loud & Schenk 2017, p. xxix.
  3. ^ a b c van der Steen 2015.
  4. ^ Schmandt, Raymond H. (Oct., 1967). “The Election and Assassination of Albert of Louvain, Bishop of Liège, 1191-92”. Speculum Vol. 42 (No. 4): 639-660. 
  5. ^ Sanders 1960, p. 130.

参考文献

  • Theuws, Frans; Roymans, Nico (1999). Land and Ancestors: Cultural Dynamics in the Urnfield Period and the Middle Ages in the Southern Netherlands. Amsterdam University Press 
  • The Origins of the German Principalities, 1100-1350: Essays by German Historians. Routledge. (2017) 
  • van der Steen, Jasper (2015). Memory Wars in the Low Countries, 1566-1700. Brill 
  • Sanders, I.J. (1960). English Baronies: A Study of their Origin and Descent 1086-1327. Oxford. p. 130 , Little Easton
先代
ゴドフロワ2世
ルーヴェン伯
1142年 - 1190年
次代
(ブラバント公に統合)
先代
ゴドフロワ2世
下ロートリンゲン公
1142年 - 1190年
次代
アンリ1世
(ロチエ公)



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