グリムニッツ条約
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条約の履行
叙任
条約の叙任条項は1530年のアウクスブルク帝国議会で発効[14]、ポメラニア公バルニム11世とゲオルク1世がはじめて公国を封土として正式に受け取った[3]。皇帝カール5世と選帝侯たちが議会に入り、着席した後、ヨアヒム1世が公式にグライフ家の叙任への反対を宣言、ただし儀式への参加とポメラニアの旗に触れることを許可された場合はそれで満足するとも述べた[14]。皇帝はヨアヒム1世の抗議を受け取った[14]。ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルクもヨアヒム1世の抗議に同意した[14]。
続いて、バルニム11世とゲオルク1世、そしてその随員たちがポメラニア、シュテッティン、カシュバイ、ヴェンデン、バート、リューゲン、ヴォルガスト、ウーゼドム、ブッコウの旗を持って議会に入り、皇帝に渡した。彼らは跪いて皇帝に忠誠を誓った[14]。ヨアヒム1世が再び抗議に声を上げ、そしてポメラニア公が皇帝から旗を受け取ると、ヨアヒム1世は前に進んで旗に手を触れた[14]。これ以降の全ての叙任式に同様の儀式が行われた[14]。
ポメラニア公国の継承
グライフ家最後のポメラニア公ボギスラフ14世は三十年戦争中の1637年に死去した[15]。ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムはグリムニッツ条約の継承条項に基づき継承を請求した[15]。
しかし、ボギスラフ14世は1630年のシュテッティン条約でスウェーデンと同盟を締結しており、条約ではボギスラフ14世の死後にはスウェーデンがポメラニア公国を統治すると定めた[15]。スウェーデンはポメラニアのブランデンブルクへの引き渡しを拒否したが[16]、結局ポメラニアは1648年のヴェストファーレン条約でスウェーデン領ポメラニアとブランデンブルク領ポメラニアに分割された[17]。この分割は1653年のシュテッティン条約で発効した[18]。
- ^ a b Branig (1997), p. 94.
- ^ a b Schleinert (2007), p. 37.
- ^ a b Krause (1997), p. 44.
- ^ Schmidt (2007), p. 120.
- ^ a b c Schmidt (2007), p. 10.
- ^ a b Lucht (1996), p. 77.
- ^ Christian von Nettelbladt and Karl Friedrich Wilhelm von Nettelbladt: Nexus Pomeraniae cum S. R. G., oder Versuch einer Abhandlung von der Verbindlichkeit Pommerschen Landen, sonderlich Königlich-Schwedischen Antheils, mit dem Heilig-Römisch-Teutschen Reich. Garbe, Frankfurt/M. 1766, pp. 156-160.
- ^ Heitz (1995), p. 202.
- ^ Materna (1995), p. 260.
- ^ Stollberg-Rilinger (2008), p. 81.
- ^ Stollberg-Rilinger (2008), pp. 81-82.
- ^ Krause (1997), p. 43.
- ^ a b c d e f g h i Stollberg-Rilinger (2008), p. 82.
- ^ a b c d e f g Stollberg-Rilinger (2008), p. 83.
- ^ a b c Croxton (2002), p. 30.
- ^ Heitz (1995), p. 226.
- ^ Heitz (1995), p. 230.
- ^ Heitz (1995), p. 232.
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