カーチャ・カバノヴァー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/09 08:40 UTC 版)
概要
ヤナーチェクが作曲したオペラ9作品のうち6番目の作品にあたり、作曲は1919年から1921年の間に行われた。彼の晩年の円熟期は本作から始まっている。38歳年下の人妻カミラ・シュテスロヴァーに献呈されている[2]。ヤナーチェクはモラヴィアを中心に民謡の採譜活動を積極的におこなったが、この経験から得られた話し言葉を生かした独特の〈語り旋律〉の手法を用いている[3]。
永竹由幸は「姑にいびられて、不甲斐ない夫への腹いせに浮気する若妻の心理が克明に描かれている。特に、浮気を決意するとこの音楽など心憎いほどで、ヤナーチェクの鋭い洞察力を示す心理劇の名作である」と評している[4]。
『ラルース世界音楽事典』によれば、オストロフスキーの主題の中に、ヤナーチェクは並外れた力と全く自分に合った熱い抒情性を見出したに違いない。いつものような主題の精髄を表現しようとするヤナーチェクは、首尾よく原作を2時間以内のオペラに凝縮した[注釈 1]。彼は宗教道徳や幸福を抑制するものと見なされる社会的規範への批判に敏感であった。最も深遠でひそやかな歌の数々がこのオペラ全体で最も感動的で純粋なヒロインであるカーチャにあてられている。透かし模様のように現れてくるのは、ヤナーチェクに霊感を与えたカミラ・シュテスロヴァーで、この人妻にヤナーチェクは恋をしていたのであり、彼女が彼の晩年の12年間を支配していたのである。主題に基づくヤナーチェクの作品は極めて綿密で均質である。音楽は比類ない美しさを持ち、恐ろしげで苦悶するようであったり、甘美で抒情的であったりし、極めて濃密で簡潔である[5]。
オストロフスキーの原作においては、ロシアの小商人階級や旧式な家長制度に対する批判と共に、人間の宿命の悲劇的本質が描かれているが、原作においては前者が最大のテーマとなっていたが、ヤナーチェクによる本作では後者がメインの主題となっていると見られる[6]。
ロシアの封建的な家長制度の抑圧、その無知、気まま放題な横暴ぶりやそれに対処する被抑圧者を見事に描いている。被抑圧者は次の3つのタイプに分類される。第一は多少なりとも抵抗力を付与された強い性格の所有者で、あらゆる狡い手段を弄して圧政者の目をくらましながら自分の生活欲のはけ口を求めているヴァルヴァラのような存在。第二は、完全に暴君の犠牲となり、全く自分の意志と言うものを持たぬ無人格の奴隷となるほか道がない弱者であるチホンのような存在。第三は、無知と暴虐に屈服し切れないだけのものを持ちながら、最後まで自己を守り通すだけの強さもなければ、そうかといって偽りによって表面を取り繕うにはあまりにも正直すぎるカーチャのような存在である。カーチャは結局、悲惨な破局を免れ得ないのである[7]。
ホースブルグによれば、カバニハの人々に対する最後の、だが断固とした感謝の言葉[注釈 2]から極めて明白に分かるのは、カーチャの死、チホンの絶望、ボリスの追放、そして、クドルヤーンとヴァルヴァラの出立にも拘らず、この小さな町の状況はそれらに何ら影響されないであろうということだ。このオペラの大部分を占めている闇はカバニハとジコイが代表する商人階級に支配された村社会における厳しい抑圧を、この上なく明白に反映している。何事も変わらないであろう。音楽自体がこの点を強調している。ヤナーチェクとしては珍しく、最初と同じ調(変ロ短調)で終わっている。しかし、ヤナーチェクの音楽は愛の喜びと苦悩とを極めて雄弁に力強く主張しており、口にもされず、歌われもしないが、希望がある。つまり、カーチャの悲劇は完全に無駄ではなかったろうという感情があとに残る。稀薄ではあるとは言え、この二重のイメージが、確かにあらゆるオペラの中で最高の部類に属するこの作品を聴いた後、いつまでも残る感動を与えてくれるのだ[8]。
『新グローヴ オペラ事典』によれば、「本作は台本に関する限りでは、最も伝統的なものだが、死の数カ月前、この作品を捧げたカミラ・シュテスロヴァーに語ったところによると、彼の最も愛しい作品でもある。ヤナーチェクの彼女に対する情熱がカーチャ像を生み、このオペラ全体にみなぎっている。それは序曲冒頭のほとんど無に等しい状態から湧きおこり、オペラの最後で運命と有無を言わせぬ抑圧を暗示する残酷なティンパニの主題によってはじめて鎮められるのである」[9]。
フレデリック・ロベールによれば、本作は異色の作曲家によるロシア版『ボヴァリー夫人』の悲劇的運命を描いている。ヤナーチェクは最大限話し言葉に接近しようとして、バラバラになってしまったような印象を与えているが、実は大きな成果を上げている[10]。
音楽
音楽的に見ると本作は『イェヌーファ』と並んで、あるいはそれ以上に、ヤナーチェクのオペラの中でも特に抒情味豊かな歌がとうとうと流れる。だが、その抒情の質は常套的ではなく、ほの暗い神秘的なムードに包まれた悲劇的な抒情に傾いているし『イェヌーファ』に比べれば色彩の変化も乏しくなっている。そのことが本作にイタリアのヴェルディのオペラやヴェリズモ・オペラとは異質な劇的緊張をもたらすことにもなっているのである。また、ヤナーチェク特有の少数の核となる動機から全曲を作り上げていく手法も独創的な心理描写と結びつきながら、ますます巧緻の度を上げていてオペラ作曲家としてのヤナーチェクの特徴をいよいよ鮮明にした傑作となっている[6]。
ヤナーチェクの音楽の特徴は4度の和声、不協和音の旋律的なつながり、全音音階、律動的対位法の重要性、応答主題のテンポを金管楽器と木管楽器とで異なるようにした管弦楽法、鳥の鳴き声の再現、笑いや涙、群衆の効果、空間的な移動などの印象を与えるようなダイナミックな合唱隊である。しかし、ヤナーチェクは自ら新しさを求めたのではない。彼は新しい音楽造形に対する直観と才能を持っていたのであって、特にオペラの分野で最も偉大で最も独創的な作曲家の一人なのである[11]。
グラウトによれば、「ヤナーチェクはチェコ語のリズムを基本に、豊富な和声をつけた印象深いスタイルを開いた。彼の和声はムソルグスキーやフランス印象派から影響を受けているが、原始的な力のこもる簡潔な表現、節約される手段を有効に用いる点など現代的な響きをもっている」[12]。
注釈
出典
- 1 カーチャ・カバノヴァーとは
- 2 カーチャ・カバノヴァーの概要
- 3 初演後
- 4 演奏時間
- 5 脚注
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