カポレットの戦い
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背景
オーストリア=ハンガリー軍は1917年時点で多大な損害を出しており、その総数は死傷者・捕虜合わせて実に150万名に及んでいた。帝国内の民族対立も日増しに高まり、ドイツ系とハンガリー系以外の兵士達の間では厭戦感情が蔓延していた。ドイツ軍参謀本部は、来たるべき第十二次イゾンツォ会戦では最早オーストリア=ハンガリー軍は戦線突破を阻止することは難しいと考えていた。オーストリア=ハンガリー軍の戦線崩壊はドイツ軍にとっても危機的な状態を作り出すことは明らかであった。事態を重く見たドイツ帝国は再三に亘って避けてきた援軍派遣を決断せざるを得なくなった。
攻撃計画は当初オーストリア側から提案され、バインジッツァ高地 (Bainsizza Plateau) 北のトルミーノからの攻勢が予定された。イタリア側のトルミーノ付近の防備は手薄ではあったが、山地であることから大軍の集中が困難と判断された。ドイツ軍は山地戦に詳しいコンラート・クラフト・フォン・デルメンジンゲン将軍を現地へ派遣して作戦計画の可能性を探った。デルメンジンゲン将軍は「困難は多いもののトルミーノの突破は可能である」との報告を出し、ドイツ軍は浸透戦術を駆使してオーストリア=ハンガリー軍への援護を行うことを決定した。
独墺軍では独軍6個師団・墺軍9個師団から第14軍が編成され、主力を担当した。その左翼には墺第3軍、第4軍からなるボレヴィッツ軍集団が展開し、イゾンツォ・トルミーノ一帯で37個師団が配置された。一方、イタリア軍では独第14軍正面には伊第3軍が配備され、イゾンツォ・トルミーノ一帯では47個師団が配置された。伊側では脱走将校などを通じて独墺軍の攻撃計画が漏れていたが、情報を軽視する傾向にあった伊軍司令部は鑑みることなく、カポレット一帯の配備兵力は薄いままであった。
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