エレナ・ア・ロムニエイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/17 03:05 UTC 版)
エレナ・ア・ロムニエイ Elena a României | |
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ルーマニア王太后 | |
王太子妃時代のエレナ | |
出生 |
1896年5月2日 ギリシャ王国 アテネ |
死去 |
1982年11月28日(86歳没) スイス ローザンヌ |
埋葬 |
スイス ローザンヌ ボワ=ド=ヴォー墓地 |
配偶者 | ルーマニア王太子カロル(後のカロル2世) |
子女 | ミハイ1世 |
父親 | ギリシャ王コンスタンティノス1世 |
母親 | ソフィア・ティス・プロシアス |
生涯
ギリシャ王コンスタンティノス1世と王妃ソフィアの長女(第3子)として、アテネで生まれた。兄にゲオルギオス2世、アレクサンドロス1世、弟にパウロス1世、妹にイリニ王女、エカテリニ王女がいる。
1921年3月10日、当時王太子だった又従兄のカロル(母親同士が従姉妹)と結婚した。それから7ヶ月半後、一人息子ミハイを生んだ。宮廷は、ミハイが未熟児で生まれたと発表したが、実際の体重は9ポンド(4kg)もあったため、彼女は結婚前にミハイを身ごもったと推測されている。
彼女と結婚する前に、カロルはカロルという同名の息子までなした愛人ジジ・ランブリノとの仲を、周囲によって裂かれていた。新興国として強国から侮られず、しかるべき王家の姫と結婚して欲しいというマリア王妃が中心になって彼にあてがわれたのが、エレナであった。押しつけられた妻エレナを、カロルは早くから疎んじ、将校の夫と離婚したユダヤ系ルーマニア人女性マグダ・ルペスクを公然と寵愛した。反ユダヤの風潮が強いルーマニアで王太子のこの振る舞いは到底受け入れられるものではなく、政府もカロルを要職に就かせようとはしなかった。父王フェルディナンド1世の崩御により即位するはずであったカロルは、継承を辞退しマグダ・ルペスクとともに国外へ亡命。夫の振るまいに対して、幼子ミハイを抱えたエレナは全く無力であった。
1928年、カロルと離婚後も、ミハイの王母としてルーマニアにとどまった。第二次世界大戦中は、枢軸国側についたルーマニアで反ユダヤの風潮が強いのに逆らい、ユダヤ系ルーマニア人の国外脱出に尽力した。戦後、ヤド・ヴァシェム賞を受賞し、諸国民の中の正義の人に列せられた。
- 1 エレナ・ア・ロムニエイとは
- 2 エレナ・ア・ロムニエイの概要
固有名詞の分類
王族の妃 |
マリー・カヴァリエ ジャヌアリア・マリア・デ・ブラガンサ エレナ・ア・ロムニエイ ジビラ・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータ ルイーゼ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ |
ギリシャの正教徒 |
アリス・オブ・バッテンバーグ フォティス・コントグルー エレナ・ア・ロムニエイ アリストテレス・オナシス エギナのネクタリオス |
グリュックスブルク家ギリシャ系 |
ソフィア・ティス・エラザス マルガリタ・ティス・エラザス エレナ・ア・ロムニエイ コンスタンティノス・アレクシオス エイゲニア・ティス・エラザス |
ギリシャ王族 |
マルガリタ・ティス・エラザス アリス・オブ・バッテンバーグ エレナ・ア・ロムニエイ エイゲニア・ティス・エラザス ペトロス・ティス・エラザス |
ルーマニアの正教徒 |
ゲオルゲ・クク トライアン・バセスク エレナ・ア・ロムニエイ エミール・ボック パウル・コンスタンティネスク |
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