エストニア (クルーズフェリー)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 01:41 UTC 版)
構造
ヴァーサ・キング時代には、船室はスイート1室、デラックス12室、スタンダード外側138室、内側355室となっていた[45]。
ヴァイキング・サリー時代のデッキプラン
# | 施設 |
---|---|
9 | 船橋, サンデッキ[46] |
8 | サンデッキ[46] |
7 | 船員船室・船員用設備、サンデッキ[47] |
6 | レストランデッキ – レストラン(スモーガスボード、アラカルト)、バー、船室(内側・外側)[48] |
5 | エントランス&カフェテリアデッキ – 免税店、カフェテリア、スナックバー、ディスコ、ラウンジ、キッズルーム、船室(内側・外側)[46][49] |
4 | カンファレンスデッキ - 会議室、ナイトクラブ、映画館、船室(内側・外側)[49] |
3 | 車両甲板[7] |
2 | 車両甲板[7] |
1 | 船室(内側)[48]、機関室[47] |
0 | サウナ、プール、会議室[48]、バウスラスター、機関室[47][JAIC 22] |
- | 液体タンク[JAIC 22] |
- ^ 当時のヴァイキングラインは、企業ではなく複数社によるコンソーシアムであった。なお、他のヴァイキングラインの共同事業主である、SFラインも興味を示していた。
- ^ ヴァイキングラインの共同事業主でもある。
- ^ 1982年の夏季は、ナーンタリ - マリエハムン - カペルシャーという航路であった[6]。ヴァイキングラインの紹介では、この他にストックホルム - ヘルシンキ航路があげられている[7]。
- ^ 船尾途中に緩やかな「下向きの」傾斜を付ける改装。
- ^ タリンに本社を置くノードストレム&スーリンと エストニアン・シッピング・カンパニー(ESCO:Estonian Shipping Company、エスティ・メレラエヴァントゥス(Eesti Merelaevandus))の子会社[JAIC 2]。
- ^ なお、記録上バルト海の最大波高は7.7mである[13]
- ^ 緊急事態が発生したことを知らせる警報、General Alarm[16]。退船警報とされることもあるが、救命ボートへの移乗警報が別途行われたため、これに退船警報を充て、ここでは一般警報とする。
- ^ メーデーは、3回繰り返すところを2回であった。
- ^ 1時22分のメーデーにマリエッラが応答したが、エストニアからの反応はなかった。シリヤ・ヨーロッパとの交信は、当初のものを除きフィンランド語で行われた[JAIC 7][14]。
- ^ マリエッラは、エストニアからの応答が得られなかった後、1時42分にヘルシンキの無線局と交信している[JAIC 9]。
- ^ 当時の水温は10 – 11°C[JAIC 4]。
- ^ Ro-Ro船が有する広い車両甲板は、水が流れ込むと、重心の変化と自由表面効果によって転覆の危険をもたらす[21]。
- ^ スウェーデン、ロシア、フィンランド、ラトビア、デンマーク、エストニア[32]。
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