エストニア (クルーズフェリー)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 01:41 UTC 版)
ヴァイキング・サリー シリヤ・スター ヴァーサ・キング エストニア | |
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基本情報 | |
船種 | クルーズフェリー、Ro-Ro船 |
所有者 |
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運用者 |
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建造所 | マイヤー・ヴェルフト |
IMO番号 | 7921033 |
改名 |
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経歴 | |
発注 | 1979年9月11日 |
起工 | 1979年10月18日 |
進水 | 1980年4月26日 |
竣工 | 1980年6月29日 |
就航 | 1980年7月5日 |
最後 | 1994年9月28日沈没 |
要目 | |
総トン数 | 15566t |
載貨重量 | 2800t |
全長 |
155.43m(建造時) 157.02m(1984年) |
全幅 | 24.21m |
喫水 | 5.55m |
機関方式 | MAN 8L40/45 4基 |
出力 | 17625kW |
速力 | 21ノット |
旅客定員 | 2000人 |
車両搭載数 | 460両 |
その他 |
船室 1190 アイスクラス 1A |
建造
西ドイツパーペンブルクのマイヤー・ヴェルフトに対して、ノルウェーの海運コンソーシアムが、ノルウェーとドイツを結ぶ航路への就航を計って発注したものである。だが、この計画は建造の終盤において中止され、建造契約はヴァイキングラインの共同事業主の一つであるレデリ・Ab・サリーに譲渡された[注 1][3]。建造時点では、レデリ・Ab・スリーテ[注 2]が、同じくマイヤー・ヴェルフト造船所で1979年に発注していたディオーナIIの姉妹船として設計されていた。だが、レデリ・Ab・サリーは当初の137mから155mに船体を延長し、甲板上構造物をより大型のものに変更することとした[3]。1970年代、マイヤー・ヴェルフトはヴァイキングラインを構成する各社の船を建造していた。顕著な構造として、ディオーナIIにも採用された、船首にランプウェイと跳ね上げ式のバウバイザーを組み込み、ランプウェイをランプドアとしてバウバイザーの内側に格納できる設計が上げられる[JAIC 1][4]。
運用
ヴァイキングライン
ヴァイキング・サリーとして1980年6月29日に引き渡され、トゥルク - マリエハムン - ストックホルム間の航路に就航した[3][5] [注 3]。就航当時、この航路では最大の船であった。ヴァイキングライン時代には、多くの船と同様に、いくつかの軽微な事故を起こしており、1984年5月にはオーランド諸島での座礁事故を起こし、翌4月にはプロペラの不調が発生している。1985年には船尾のダックテイル化を行っている[注 4]。
レデリ・Ab・サリーは1980年代に資金繰りが苦しくなっていたが、1987年に競合相手であるシリヤラインを運営するフィンランドのエフォアとスウェーデンのジョンソンラインにヴァイキング・サリーを売却した[8]。これにより、ヴァイキングラインからの撤退が必要となったが、レデリ・Ab・スリーテが3年間傭船することで運航が継続された[3][5][8]。
エフジョン
1990年に傭船契約が終了すると、ヴァイキング・サリーはシリヤラインの塗装に塗り替えて、シリヤ・スターと改名。ヴァイキングライン時代と同じ、トゥルク - マリエハムン - ストックホルム航路に就航した[3][5]。これはヘルシンキ - ストックホルムの航路に投入する新造船シリヤ・セレナーデの完成が11月にずれ込み、本来トゥルク航路に就航していたヴェラモをヘルシンキ航路に充てたことによるものであった[9]。同年、エフォア、ジョンソンライン、レデリ・Ab・サリーはエフジョン(EffJohn)として合併している。
1991年春には、エフジョンの別ブランドヴァーサラインで運航された。船名をヴァーサ・キングと改め、ヴァーサ - ウメオ - スンツヴァル航路に就航した[3][5]。荒天下でヴァーサを出港する船としては、ヴァーサ・キングは、最良の船であると考えられていたとする、報告が残されている。
エストライン
1993年1月、エフジョンがヴァーサラインをシリヤラインに合併する決定を行った。ヴァーサ・キングはノードストレム&スーリン(Nordström & Thulin)に売却され、エストラインによってエストニアの船名で、タリン - ストックホルム間の航路に使用されることになった。所有権については複雑な状態にあり、ノードストレム&スーリンは融資を受けてエストニアを取得しており、実際に購入したのは同社であるが、登記上はキプロスのニコシアに登記があるエストライン・マリーン(Estline Marine)となっていた。エストライン・マリーンは、エストニアのE.リーニ(E.Liini)[注 5]に傭船し、さらにエストラインに又貸しする形を取っていた。結果、船籍はキプロスとエストニアの両国に置かれていた[3][5]。
エストニアは、ソビエト連邦の崩壊によって独立を回復したエストニアにとって最大の船であり、独立の象徴となっていた[10]。
- ^ 当時のヴァイキングラインは、企業ではなく複数社によるコンソーシアムであった。なお、他のヴァイキングラインの共同事業主である、SFラインも興味を示していた。
- ^ ヴァイキングラインの共同事業主でもある。
- ^ 1982年の夏季は、ナーンタリ - マリエハムン - カペルシャーという航路であった[6]。ヴァイキングラインの紹介では、この他にストックホルム - ヘルシンキ航路があげられている[7]。
- ^ 船尾途中に緩やかな「下向きの」傾斜を付ける改装。
- ^ タリンに本社を置くノードストレム&スーリンと エストニアン・シッピング・カンパニー(ESCO:Estonian Shipping Company、エスティ・メレラエヴァントゥス(Eesti Merelaevandus))の子会社[JAIC 2]。
- ^ なお、記録上バルト海の最大波高は7.7mである[13]
- ^ 緊急事態が発生したことを知らせる警報、General Alarm[16]。退船警報とされることもあるが、救命ボートへの移乗警報が別途行われたため、これに退船警報を充て、ここでは一般警報とする。
- ^ メーデーは、3回繰り返すところを2回であった。
- ^ 1時22分のメーデーにマリエッラが応答したが、エストニアからの反応はなかった。シリヤ・ヨーロッパとの交信は、当初のものを除きフィンランド語で行われた[JAIC 7][14]。
- ^ マリエッラは、エストニアからの応答が得られなかった後、1時42分にヘルシンキの無線局と交信している[JAIC 9]。
- ^ 当時の水温は10 – 11°C[JAIC 4]。
- ^ Ro-Ro船が有する広い車両甲板は、水が流れ込むと、重心の変化と自由表面効果によって転覆の危険をもたらす[21]。
- ^ スウェーデン、ロシア、フィンランド、ラトビア、デンマーク、エストニア[32]。
- 1 エストニア (クルーズフェリー)とは
- 2 エストニア (クルーズフェリー)の概要
- 3 沈没事故
- 4 構造
- 5 画像
- 6 外部リンク
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