70年安保・ベトナムとは? わかりやすく解説

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70年安保・ベトナム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 04:37 UTC 版)

全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「70年安保・ベトナム」の解説

1967年日本政府ベトナム戦争への加担強め始める中で、各派全学連対立をしつつも共通の課題向かって闘争行っていった。70年安保運動日程上る中の1967年10月8日日共全学連多摩湖畔でピクニックをしていたこととは対照的に革マル派系全学連と三派全学連佐藤栄作首相南ベトナム訪問阻止叫び機動隊激しく激突した10・8羽田闘争)。これは反戦青年委員会共闘されたもので、この労学共闘大衆的武装闘争日本反体制運動史の中で画期的なものであった。この闘争京都大学学生山崎博昭機動隊殺害される惨事発生した。この闘争では前持った組織的な武装初め行われ、また武装闘争公然化した契機であり、それは学生運動質的転換であった。この10・8羽田について日共全学連一部暴力学生集団挑発非難するとともに善隣会館事件転機とする対立党派対すテロ攻撃リンチ武装襲撃を一層徹底していった。11月12日にも三派全学連ヘルメットタオルつけ石角材武装して機動隊激突しマスコミからは「暴力集団」と報道された。1968年1月には佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争2月には王子野戦病院開設阻止闘争3月には成田空港建設阻止闘争三里塚闘争)があり、羽田での高揚引き継いだ三派全学連革マル派全学連実力闘争行った7月、三派全学連中核派全学連反帝全学連分裂するこの分裂の経緯には諸説あり不明点も多いが、いずれにせよ7月5日拡大中央委員会中核派抜きで行われ秋山委員長罷免された。7月中核派全学連反帝全学連別個に大会開き第4インター系はその両方ボイコットした10月21日新宿騒乱騒乱罪適用されるほどの騒擾となった佐世保闘争以降学生好意的であったメディア反応であったが、新宿騒乱以降第一次羽田事件の頃のように学生批判的な論調となった

※この「70年安保・ベトナム」の解説は、「全日本学生自治会総連合の歴史」の解説の一部です。
「70年安保・ベトナム」を含む「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事については、「全日本学生自治会総連合の歴史」の概要を参照ください。

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