70年安保・ベトナム
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「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「70年安保・ベトナム」の解説
1967年、日本政府がベトナム戦争への加担を強め始める中で、各派全学連は対立をしつつも共通の課題に向かって闘争を行っていった。70年安保が運動日程に上る中の1967年10月8日、日共系全学連が多摩湖畔でピクニックをしていたこととは対照的に、革マル派系全学連と三派全学連は佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止を叫び、機動隊と激しく激突した(10・8羽田闘争)。これは反戦青年委員会と共闘されたもので、この労学共闘の大衆的武装闘争は日本の反体制運動史の中で画期的なものであった。この闘争で京都大学学生の山崎博昭が機動隊に殺害される惨事も発生した。この闘争では前持った組織的な武装が初めて行われ、また武装闘争を公然化した契機であり、それは学生運動の質的転換であった。この10・8羽田について日共系全学連は一部暴力学生集団の挑発と非難するとともに、善隣会館事件を転機とする対立党派に対するテロ攻撃・リンチ・武装襲撃を一層徹底していった。11月12日にも三派全学連はヘルメットとタオルをつけ石と角材で武装して機動隊と激突し、マスコミからは「暴力集団」と報道された。1968年1月には佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、2月には王子野戦病院開設阻止闘争、3月には成田空港建設阻止闘争(三里塚闘争)があり、羽田での高揚を引き継いだ三派全学連と革マル派全学連は実力闘争を行った。7月、三派全学連は中核派全学連と反帝全学連に分裂する。この分裂の経緯には諸説あり不明点も多いが、いずれにせよ7月5日の拡大中央委員会が中核派抜きで行われ、秋山は委員長を罷免された。7月、中核派全学連と反帝全学連は別個に大会を開き、第4インター系はその両方をボイコットした。10月21日、新宿騒乱は騒乱罪が適用されるほどの騒擾となった。佐世保闘争以降学生に好意的であったメディアの反応であったが、新宿騒乱以降は第一次羽田事件の頃のように学生に批判的な論調となった
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