1966年~ 大西ジャパン
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「ラグビー日本代表」の記事における「1966年~ 大西ジャパン」の解説
NZ遠征 その後2年間は試合が行われなかったが、1966年に大西鐡之祐が監督に就任すると、2年後の1968年にニュージーランド (以下、NZ)とオーストラリアへ遠征し、1か月間で11試合を行い、6月3日のオールブラックスジュニア戦と6月8日のNZU戦がテストマッチ対象試合となった。23歳以下で構成されたオールブラックスジュニアとの試合では、坂田好弘が4トライを挙げるなどの活躍を見せて23-19で撃破する大金星を挙げた。翌日の地元新聞には「NZラグビー暗黒の日」という見出しが踊ったという。この長期遠征は5勝6敗の成績だった。 日本選手権出場辞退事件 1969年に開催された第1回のアジアラグビーフットボール大会 (アジア選手権ともいう)で優勝。 1970年タイ・バンコクで開催の第2回開幕直前に、1969年度の全国社会人ラグビーフットボール大会で優勝した近鉄、準優勝のトヨタ自工、同3位の三菱自工京都が相次いで、アジア選手権に主力を送り込むため、同年度の日本ラグビーフットボール選手権大会 (日本選手権)を辞退することを表明する騒動が起こった (詳しくは、日本ラグビーフットボール選手権大会#日本選手権の辞退を参照)。1月10日から18日までのアジア選手権と、1月15日開催される日本選手権とで日程が重なったためである。 このような騒動があったものの、アジア選手権連覇を果たした日本は、1970年3月に、NZUとBC代表を日本に招いてテストマッチを行なったが、日本のエース、坂田好弘は当時ニュージーランド留学中のためNZUのメンバーとして出場した。結果、BC代表には32-3で快勝したが、NZUには3戦全敗。大西ジャパン時代にはNZUには勝つことができなかった。 イングランド相手に大健闘 1971年9月、イングランド代表が来日した。同月24日に花園での試合では、双方5度にわたる逆転劇の末、 19-27で敗戦。28日の秩父宮では双方ノートライのロースコアゲームとなった。日本は山口良治が挙げた1ペナルティ・ゴールしか得点を奪えなかったが、後半32分頃に宮田浩二があと2センチあればトライを取れていたプレイがあるなど、イングランドと互角に渡り合い、3-6で惜敗した が、今もなお、日本代表試合史上に残るベストゲームとして語り継がれている。これを最後に大西は監督を辞任した。 「〇〇ジャパン」のルーツ 大西は、早大監督時代から海外列強の理論を導入。寄せ集め的な日本代表チームの編成に異議を唱え、日本代表の強化・セレクションの基礎を作り上げた。日本代表監督に就任する前、当時はラグビーでも「全日本」という言い方をしていたが、それではただの寄せ集めチームの名前に過ぎないとして、「いいか、君らは日本を代表して戦うんだ!よって(親しみを込めて)これから『ジャパン』ということにする。」と、代表選手を集めたミーティングで説き、以後暫く、「ジャパン」といえば、ラグビー日本代表のことを指すようになった。また、ラグビーでは「大西早稲田」「北島明治」などチーム名に監督名を冠する呼称が一般的だったので「大西ジャパン」と呼ばれた。 接近・展開・連続 大西の豊富なラグビー理論を集約した考え方が、「接近・展開・連続」である。これは、体の大きい相手にはスペースを与えず、できる限り「接近」してプレーする。相手とすれ違いざま、接触する寸前に素早く、味方に正確なパスを通し、人もボールもワイドに「展開」する。そのプレーを「連続」させて、相手ゴールを陥れるということに起因する。 その理論に基づき、大胆な選手起用も試みた。ラグビー経験の少ない井沢義明をいきなり代表に抜擢、身長160センチ台ながらタックルが良くラインアウトのスローイングに長けた石田元成をフランカーとして起用。トリッキーなステップで対面を抜き去るウィングの萬谷勝治を「カンペイ」の切り札としてフルバックに配置替え。No.8だった原進を鍛え上げて世界に通用するプロップに育てるなど、オールスター選抜・早慶明同に人選が偏重する傾向の強かった日本代表を革新した。
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