1960年8月のクーデター
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「コン・レー」の記事における「1960年8月のクーデター」の解説
1960年8月8日、ほぼ全ての閣僚がシーサワーンウォン前国王の葬儀準備のために王都ルアンパバーンに向かい、首都ヴィエンチャンを留守にした。この機を捉え、コン・レー大尉はクーデターを決行する。 翌8月9日の早朝、600人の第2パラシュート大隊を率いてヴィエンチャン郊外の仮駐屯地を出発し、わずか3時間で首都の主要機関を占拠した。対する政府軍は数倍もの兵力数にもかかわらず、士気が低く戦闘技術も無かったため、抵抗することなく降伏するかメコン川対岸のタイ領に逃亡した。同日、コン・レーは反腐敗、外国の不干渉と外国軍撤退、国際的中立、あらゆる国からの援助受け入れ、の4項目の政策を放送した。また、全軍に対してパテート・ラーオ軍への攻撃停止を布告し、パテート・ラーオに対しては新政府への協力を呼びかけた。 8月11日、コン・レーは大衆集会で演説し、ラオス人同士の争い、腐敗、外国人による支配の終止符を呼びかけ、国王に対してスワンナ・プーマ親王を首相に任命するよう要請した。ラオスの国民は戦争に膿み疲れており、ヴィエンチャンでも学生を中心に庶民から熱狂的に歓迎された。また、ヴィエンチャンからの脱出途上にあったヌーハック等のパテート・ラーオ幹部とも接触し、政治・軍事での協力で合意した。 ヴィエンチャンの議会も8月13日、59人中41人の議員が出席して、満場一致によりソムサニット(英語版)内閣の不信任を可決するとともに、プーマの首相任命を要請した。14日、ソムサニット内閣は国王に辞表を提出し、国王はプーマに組閣を命じた。こうして16日にはプーマ第3次内閣が発足し、翌17日に議員34人の満場一致で内閣を承認した。 8月18日、コン・レーはクーデターの終了を宣言した。
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