1945年 南号作戦-沈没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 09:05 UTC 版)
「第二十号掃海艇」の記事における「1945年 南号作戦-沈没」の解説
1月6日、サシ39船団(10隻)を護衛しサンジャック発。9日シンガポール着。16日から30日までシンガポールの第百一海軍工作部で入渠し整備と修理を行う。31日、ヒ88C船団(2隻)を護衛しシンガポール発。2月16日に金門島で仮泊。17日から18日まで南日島で仮泊し、ここで船団は2つに分かれ、本艇は延長丸を護衛し上海へ向かい、21日着。25日に上海を出港し、3月2日に門司に到着した。 3月3日、第一護衛艦隊作戦指揮を解かれ、鎮海警備府護衛部隊に復帰。舞鶴へ回航し、4日から28日まで舞鶴海軍工廠で修理を行う。修理中の6日、第百三戦隊が鎮海警備府作戦指揮下に編入され、護衛部隊の指揮を第百三戦隊司令官が取ることとなったため、以後は第百三戦隊諸艦との共同行動が多くなる。30日、鎮海着。 4月1日、荷衣島に回航したが、同日北緯34度02分 東経124度00分 / 北緯34.033度 東経124.000度 / 34.033; 124.000の地点でタモ51船団が潜水艦の攻撃と濃霧により離散したため、本艇は第215号海防艦、第26号駆潜艇とともに行方不明船の捜索と掃蕩のため現場へ向かう。6日、掃蕩を中断し、タモ53船団の護衛に向かう。11日、特設掃海艇第十七日之出丸が登山串沖で被雷沈没したため、隠岐とともに現場へ向かい掃蕩と航路維持にあたる。14日、青島に待機中の船舶(15隻)を還送させるため、隠岐とともに青島へ回航。19日、隠岐らとモ705船団第1分団を護衛して青島を発し、大東湾まで護衛。20日、モ705船団第2分団(8隻)を護衛するため大東湾発。21日に同分団と合同したが、25日に荷衣島で補給のため船団から分離。補給後、木浦へ回航。 5月5日、黒山島西方でアメリカ潜水艦トレパンの攻撃を受け沈没した。25日、第二十号掃海艇は帝国掃海艇籍から除かれ、第十九号型掃海艇から削除された。
※この「1945年 南号作戦-沈没」の解説は、「第二十号掃海艇」の解説の一部です。
「1945年 南号作戦-沈没」を含む「第二十号掃海艇」の記事については、「第二十号掃海艇」の概要を参照ください。
- 1945年 南号作戦-沈没のページへのリンク