1944年8月 ガリツィアの戦い
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「第33SS武装擲弾兵師団」の記事における「1944年8月 ガリツィアの戦い」の解説
1944年6月22日、ソビエト赤軍はバグラチオン作戦を発動して東部戦線の南北全域におけるドイツ軍を脅かした。7月13日にはソビエト赤軍第1白ロシア方面軍と第1ウクライナ方面軍の攻撃により、ドイツ軍北ウクライナ軍集団の戦線が危機に陥った。 そのため、第8フランスSS義勇突撃旅団にも1個大隊規模の戦闘団をウクライナ~ポーランド国境のガリツィア地方へ派遣するよう命令が下り、フランス民兵団指導者ジョゼフ・ダルナンの側近ピエール・カンスSS義勇大尉(SS-Frw. Hstuf. Pierre Cance)率いる第I大隊が8月5日にガリツィアへ出陣した。 現地において第I大隊は、サノク(Sanok)で既に戦闘中の第18SS義勇機甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴェッセル」に配属され、赤軍の前進を食い止めるために順次最前線へ向かった。この時の第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊の編制は次の通り。 第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊(1944年8月・ガリツィアの戦い) 大隊長 ピエール・カンスSS義勇大尉(SS-Frw. Hstuf. Pierre Cance) 第1中隊 ノエル・ド・ティソSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Noël de Tissot) 第2中隊 レオン・ゴルティエSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Léon Gaultier)、イヴァン・バルトロメイSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Ivan Bartolomei) 第3中隊 アンリ・フネSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Henri Fenet) 第5中隊 ポール・プレベSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Paul Pleyber)対戦車砲小隊 アンリ・クライスSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. Henri Kreis) 戦車破壊班 アベル・シャピィSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. Abel Chapy) 第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊は1944年9月1日に前線から引き揚げるまで粘り強く戦ったが、その損害は甚大であった。8月5日の戦線到着時に約980名いた大隊の将兵のうち、90名から130名が戦死し、40名から50名が行方不明となり、660名が負傷した。また、この戦闘中にソビエト赤軍の捕虜となったフランス人義勇兵の多くは赤軍兵によって即座に殺害された(処刑を免れた場合でもソビエト連邦領内での過酷な収容所生活が待ち受けていた)。
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