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10.8決戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/03 20:52 UTC 版)

10.8決戦(じってんはちけっせん)[注釈 1]は、1994年10月8日日本愛知県名古屋市中川区ナゴヤ球場で行われた、日本プロ野球セントラル・リーグ(以下「セ・リーグ」と記す)の中日ドラゴンズ(以下「中日」と記す)対読売ジャイアンツ(以下「巨人」と記す)第26回戦を指す通称である。

日本プロ野球史上初めて、シーズンリーグ戦(公式戦)の勝率が同率首位で並んだチーム同士の最終戦での直接対戦によって優勝チームが決定した[注釈 2][注釈 3]。後述するとおり、日本社会の広い範囲から注目された事象である[注釈 4]


  1. ^10・8決戦」(じゅうはちけっせん)とも呼ばれる。
  2. ^ a b 1973年10月22日、阪神が2位巨人に0.5ゲーム差で首位にいた状況で、両チームにとっての最終戦が優勝を決定する直接対決として行なわれた。ただし、長嶋は当時コーチ兼任選手として巨人に在籍していたものの、別の試合で負傷のため試合会場に行かなかった(『週刊ベースボール』1973年11月5日号 834号)。なお、高木は、同年10月20日に阪神を破ってこの局面を「演出」した中日に選手として在籍していた。(V9 (読売ジャイアンツ)も参照)
  3. ^ 関係者から見たこの試合の位置づけについて、川相は、自著『明日への送りバント』で「日本シリーズでの第七戦とはまた意味合いの違う(中略)ここで破れれば、129試合、なんのために気持ちを切らさずにがんばってきたのかわからなくなります」と述べている。
  4. ^ 電通は、『広告景気年表:1994年』の「世相・風俗 (1994) 」において、「プロ野球を中心にスポーツ界に話題が集まる」として、イチローの210安打、巨人の「日本一」と並んでこの試合を取り上げている。
  5. ^ セントラル・リーグを参照。
  6. ^ a b 8月18日、巨人は中日を破ってマジックナンバーを点灯させ、今中慎二は5イニング失点5、自責点4で敗戦投手となった(8月19日付日経33面縮刷版1994年8月号p.825「M25点灯 今中粉砕、松井2発」)。なお、今中の同年の対巨人戦「もう1敗」は、7月13日に、桑田真澄の適時打、2失点完投によるもので、今中は7イニング3失点で「攻略」とはとても言えない(7月14日付朝日27面縮刷版同年7月号p.633)。
  7. ^ 8月30日の中日戦でマジックナンバーが消滅。9月11日の広島戦で再点灯したが、9月23日の横浜戦で再び消滅した。
  8. ^ 巨人が勝ち中日が敗れていれば、残り1ゲームで2ゲーム差となるため。
  9. ^ 当時の登録名は本名の「山本 昌広(やまもと まさひろ)」。ここでの表記は「山本昌」で統一する。
  10. ^ 敗戦投手は、この回に登板し、槙原の前に塁上の2走者を残して降板した橋本清である。
  11. ^ この時点まで、「巨人・中日の両チームがともに全試合を終了して同率で並ぶ」可能性があり、その場合は、3試合制のプレーオフが行われるルールとなっていた。(セントラル・リーグを参照)
  12. ^ セ・リーグでは1982年に、中日がシーズン最終戦に勝って優勝が決定したということがあるが、この最終戦の相手は優勝争いに関係ない横浜大洋ホエールズであった(中日がこの最終戦に敗れていたら、先に公式戦全日程を終了していた巨人が同年の優勝となるところであった)。なお、高木は、当時中日にコーチとして在籍していた(中日ドラゴンズ#近藤・山内監督時代を参照)。
  13. ^ 中日の優勝のうちこの年から見て"前回"(1988年)の際にフェンスを破ってファンがなだれ込み、けが人も出し、「手薄な」警備も問題となった(10月7日付毎日新聞夕刊3面縮刷版p.349、1988年10月8日付日経 社会31面縮刷版同年10月号p.401ほか)なお、前記1988年の日経によると、愛知県警機動隊約120人、球場側約260人の警備体制ということであった。
  14. ^ 1973年の「最終決戦」で、暴徒化した阪神ファンにより、試合終了時のグラウンド(阪神甲子園球場)は胴上げ中止など大混乱となった。上記10月8日付スポニチの紙上で、森祇晶は、試合終了時には逃げることで頭が一杯であった旨、述べている。
  15. ^ 元木大介は、後年、自著『元木大介の1分で読めるプロ野球テッパン話88』で、「自分の所に打球が飛んでくることが怖いと感じたほど緊張」し、試合中憶えていることは「初回に大豊の二塁ゴロを処理し損ねそうになった」ことと、「第1打席で安打を放ったこと」くらいで、他の選手に聞いた範囲でも、元木自身と同様「『あまり憶えていなかった』という選手が多かった」という趣旨のことを述べている。
  16. ^ もっとも、この当時の山形県は前年(1993年)に山形テレビがフジテレビ(CX)・テレビ朝日ANN)のクロスネットからANNのマストバイへとネットチェンジを行った影響で、フジテレビ系列のテレビ局が存在せず、多くの山形県民はこの試合をテレビ観戦できなかった。
  17. ^ 10月8日付ニッカンのトップ見出しは「長嶋 国民的行事!!」
  18. ^ 今中の前回登板は10月2日の先発で、勝利投手となった。試合まで、この項目で引用している新聞のほぼ全てが「今中先発」を前提に分析・予想していた。
  19. ^ a b 「二死」と思っていたため、打者が三振の際に攻守交替となるため帰塁を考える必要がないという前提で行動して、捕手村田真一からの牽制球による牽制死となったものである。村田は1回裏も打者小森哲也のバントの動きで飛び出してしまった二塁走者清水雅治を送球でアウトとし、ピンチ脱出に貢献している(こちらの記録は盗塁死)。
  20. ^ 松井の犠打(バント)は、このほかには1995年に2つあるのみであり、勝負全体の中でも特に勝ち越し点への「執念」を示すものの一つと位置付けられる(『巨人軍5000勝の記憶』ほか)。
  21. ^ 落合は、この負傷が影響して後日の日本シリーズは第3戦に指名打者で出場したのみにとどまった。
  22. ^ #スコアのとおり、巨人も3失策し、うち1つは失点に結びつき、さらに落合の負傷退場の原因となったプレーもある。
  23. ^ 立浪の左腕が一塁ベースにぶつかるように達している場面の写真は『中日ドラゴンズ70年史』p.176にも取り上げられている。なお、打者走者の一塁へのスライディングの意図と危険性等は
  24. ^ 糸井重里は、「(立浪の一塁塁上での脱臼について)あの当たりだったら(中略)みんな同じことをしたと思うから怖かった」と述べている(週刊ベースボール1995年1月29日号 2094号)。
  25. ^ この試合が行われた当時、先発登板した投手は、次回登板まで4日以上あけることが一般的な状況であった。例としては、1994年の日本シリーズでは、第1戦の両チーム先発投手は5日後の第5戦に先発登板している。
  26. ^ 川相も「あれは気分的に楽でした」と振り返っている(『number』2009.7.30 733号 p.66)。ただし、川相は、こう述べた当時、落合監督の中日でコーチをしていた。
  27. ^ 「ファンはなだれ込まなかった。それは首脳陣、選手への『称賛』の証明だった」と述べている(10月9日付毎日新聞 スポーツ18面 縮刷版p.350)。
  28. ^ 『ベースボール・レコードブック 1995』は「(1994年のヤクルトは)4日に中日に勝ち、6日に巨人に勝ったことで史上初の130試合目同率決戦のお膳立てを整え…」と記述している (p.17) 。
  29. ^ 2008年の試合時点で、巨人は、監督が原で、村田、斎藤雅樹がコーチとして在籍しており、1994年当時中日に在籍していた矢野輝弘(10.8決戦には出場していない)が阪神の捕手として出場した。一方、中日は、リーグ3位としてのクライマックスシリーズへの出場が確定しており、監督が落合で、川相がコーチとして、立浪、山本昌は選手として在籍していた。


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