鬱陵島と独島の名称変遷研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 14:21 UTC 版)
「保坂祐二」の記事における「鬱陵島と独島の名称変遷研究」の解説
「石島 (韓国)」を参照 1882年に、鬱陵島検察使に任命された李奎遠が当時の韓国王高宗と対話した際、高宗は鬱陵島の側に于山島、松竹島などがあると指摘した。しかし李奎遠はこれに対し「于山島とは鬱陵島のこと」と答えたので、高宗は李奎遠の意見をいったん受け入れ「于山島、竹島(チュクド)、松島を総称して鬱陵島と言うのだ」と整理し直した。つまりこの時「于山島とは倭のいう松島である」というそれまでの朝鮮の島名の認識に変化が起きたと保坂は見ている。(保坂は、この松島は現在の竹島であり、当時日本で呼ばれていた松島が現在の竹島であることを高宗は朝鮮の文献を通して知ったとしている。)そして1900年、結果的に大韓帝国は松島という日本名を捨て、鬱陵島の住民たちが現在の竹島に使っていたとする「ドクソム」という言葉を韓国王朝だけでしか使われていない「石島」として鬱島郡に編入したとしている。1882年の移住以来、住民たちは「ドクソム」の音を用いた「独島」という名称を充てて使っていたため独島という名称が定着、鬱島郡守の深興澤が1906年に住民の呼び名である「独島」という名称を用いて議定府に報告したとき議定府でも独島を現在の竹島と認識したことから、「石島」=「独島」という認識は当時の大韓帝国では一般的なものであったとし、現在の竹島の名称が韓国で于山島からトクソム(ドクソム)、つまり訓で石島、音で独島に変化した経緯を彼なりに説明している。 1900年10月25日の大韓帝国勅令41号において韓国政府は鬱陵島を中心にした鬱島郡を制定し、その管轄範囲を鬱陵島、チュクト、石島としたが、彼は上記の理由から石島とは独島(現在の竹島)であると主張する。彼は、鬱陵島近傍の「観音島」が島項、またはカクセ島(この名称は現在でも使用されている)という名称を持っており、この島を石島とした事実が無いこと、さらに鬱陵島に隣接している観音島は観音崎とも呼ばれる。
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