高根金山の盛衰とは? わかりやすく解説

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高根金山の盛衰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 04:43 UTC 版)

高根 (村上市)」の記事における「高根金山の盛衰」の解説

戦国時代諸大名は戦のため鉄砲が必要で手に入れるには金銀必要だった。そのため活発に金銀山開発に努めていて、その運上金最終的に豊臣秀吉のもとに納められていた。鳴海金山・駒嶽・金之丞山からなる高根金山砂金鉱床のため、掘りやすかったことから当金山を中心とする越後黄金山(こがねやま)は佐渡相川金山発見される1601年慶長6年)までは全国一の産出誇っていた。その為、世界最大金貨豊臣家鋳造命じていた天正大判大判小判大部分高根金山から掘り出された金で作られていた。上杉景勝命令大石播磨守元綱らが作成した米沢上杉家所蔵越後国絵図」の一葉瀬波絵図高根金山について記されている。1597年慶長2年)に、これに記録されている本納が各領主納められ、それが秀吉運上された際の記録が「慶長三年伏見蔵納目録」に残っている。そこには高根金山を主鉱とする越後黄金山のみで全国運上額の3割を産出していたとある。高根金山天正慶長時代大盛山で日本一金山だった。また堀丹後直寄の時代には幕府から承認され金山仕置出され幕府直営金山となった。しかし、佐渡相川金山繁栄奪われたあとの1616年元和2年幕府意向により廃山。また幕末天命年間市島家による開発が行われたが金主続かず明治以降大倉喜八郎視察吉田太郎採掘などあったが徐々に衰退した前述したように掘りやすかった故、掘り尽くされたように感じる状態だった。1964年昭和39年9月朝日村有志貝沼英雄遠山喜樹らによって探査が行われた。翌年1965年昭和40年8月には、文部省科学研究費助成を受け横山貞裕が鉱内の写真撮影が行われ200写真撮られた。また、1968年昭和43年)には新潟大学地質学者原一也教授招いて山金山の調査朝日村主催行われ、その調査結果それまで研究成果資料朝日村役場社会教育主事編集の「なるみ」に収められている。

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