高根金山の盛衰
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戦国時代、諸大名は戦のため鉄砲が必要で手に入れるには金銀が必要だった。そのため活発に金銀山開発に努めていて、その運上金は最終的に豊臣秀吉のもとに納められていた。鳴海金山・駒嶽・金之丞山からなる高根金山は砂金鉱床のため、掘りやすかったことから当金山を中心とする越後黄金山(こがねやま)は佐渡相川金山が発見される1601年(慶長6年)までは全国一の産出を誇っていた。その為、世界最大の金貨で豊臣家が鋳造を命じていた天正大判の大判や小判の大部分は高根金山から掘り出された金で作られていた。上杉景勝の命令で大石播磨守元綱らが作成した米沢上杉家所蔵「越後国絵図」の一葉瀬波郡絵図に高根金山について記されている。1597年(慶長2年)に、これに記録されている本納が各領主に納められ、それが秀吉に運上された際の記録が「慶長三年伏見蔵納目録」に残っている。そこには高根金山を主鉱とする越後黄金山のみで全国運上額の3割を産出していたとある。高根金山は天正・慶長の時代は大盛山で日本一の金山だった。また堀丹後直寄の時代には幕府から承認された金山仕置が出され幕府直営金山となった。しかし、佐渡相川金山に繁栄を奪われたあとの1616年(元和2年)幕府の意向により廃山。また幕末の天命年間に市島家による開発が行われたが金主が続かず、明治以降も大倉喜八郎の視察や吉田倍太郎の採掘などあったが徐々に衰退した。前述したように掘りやすかった故、掘り尽くされたように感じる状態だった。1964年(昭和39年)9月、朝日村有志の貝沼英雄・遠山喜樹らによって探査が行われた。翌年の1965年(昭和40年)8月には、文部省科学研究費の助成を受け横山貞裕が鉱内の写真撮影が行われ200枚の写真が撮られた。また、1968年(昭和43年)には新潟大学地質学者の芽原一也教授を招いて鳴山金山の調査が朝日村主催で行われ、その調査結果とそれまでの研究成果資料は朝日村役場社会教育主事編集の「なるみ」に収められている。
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