香港島攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 20:38 UTC 版)
九龍半島を占領した日本軍に対して、イギリス軍は香港島と洋上の艦船から砲撃を浴びせた。日本軍では九龍要塞の攻略で戦闘は終わると予想し、香港島攻略の具体的な計画は考えていなかったので、イギリス軍の抵抗は意外なものであった。第23軍にはベルリンオリンピック水泳選手の伊藤三郎少尉や小池禮三少尉がいたので、決死隊を編成しヴィクトリア港を泳いで渡らせようと思いついたが、試してみたところ重装備ではろくに進みもせず、思いつきは断念された。 13日、九龍半島の貯水池から香港島への給水が断たれた。同日、日本軍は軍参謀の多田督知中佐と道案内のイギリス婦人を降伏勧告の軍使として派遣した。ヤング総督は降伏勧告を一蹴したが、日本軍では、会話の中でのやりとりから、香港島の一角に上陸しさえすればこれを契機としてイギリス軍は降伏するのではないかという希望的観測が広まった。 14日から日本軍は香港島へ向けて砲爆撃を開始し、第1砲兵隊は九龍半島対岸の海岸要塞に向けて3日間で2,000発を打ち込んだ。しかし島の南側の要塞はほとんど手付かずであった。17日、再度多田中佐を派遣し第2回目の降伏勧告が行われたが、回答は変わらなかった。 渡海作戦は、歩兵団長の指揮する右翼隊(歩兵第228、第230連隊各主力基幹)が九龍及び大全湾付近より香港島北角付近へ、左翼隊(歩兵第229連隊基幹)が鯉魚門方面から同島北東部へ上陸する作戦であった。18日20時準備射撃を開始。20時40分第1波が離岸し、21時45分奇襲上陸に成功した。第2波は一転して激しい防御射撃を受けたが19日払暁までに渡海を完了し、香港島北東部を確保した。 イギリス軍は、在香港重慶軍事使節団長である陳策提督の「中国軍6万が国境に集結して日本軍を背後から攻撃せんとしている」との言葉を信じていた。19日から20日にかけて戦闘は混戦状態を呈した。イギリス軍は頑強な抵抗を続け、日本軍は複雑な地形と堅固なトーチカ群に遭遇して前進を阻まれた。 20日、ニコルソン山の要塞を攻撃した日本軍右翼隊は同日夜にこれを占領したものの死傷者は600名に及んだ。左翼隊も山麓の香港ホテルに陣取るイギリス軍の猛射を受け前進できなくなった。赤柱半島でも激戦となった。赤柱半島は付け根の正面がわずかに250メートル、縦深3キロに及ぶ半島で、海岸砲台や高射砲陣地を備え鉄条網を張り巡らせ、約1,500名が守備する要塞地帯であった。日本軍は2個大隊と砲兵をもって攻撃をかけたがどうしても攻略することができなかった。
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