首都の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 04:46 UTC 版)
「首都立地法 (アメリカ合衆国)」の記事における「首都の建設」の解説
ポトマック河畔に首都を建設する計画が実現せずに、首都がいつまでもフィラデルフィアに留まることを望む者もいた。しかし、ジョージ・ワシントン大統領は迅速に行動を開始し、ジェファーソンと共に自らその建設計画が立てられ実行されるのを監督した。ひとたび恒久的首都の計画が立案されると、ペンシルベニア州の代議員団はフィラデルフィアにおける連邦政府建物は大統領官邸の維持予算を割り当てるなど、首都建設計画を潰す方向に動き続けた。 首都建設法は正確な位置を規定していなかったが、ジョージタウンが首都になるものと見なされていた。ワシントンはジョージタウンの南東部、アナコスチャ川(東部支流)近くの視察を始めた。そこの土地所有者の中には首都のために進んで土地を売るつもりがあるとワシントンに伝える者もいた。ワシントンはポトマック河畔の別の土地も視察した。その後幾つかの土地について具体的詳細と所有状況を知るために調査させることにした。ワシントンは1790年11月にフィラデルフィアに戻り、トーマス・ジェファーソンと首都立地法の実行案を協議した。このときにジョージタウンがその近傍に立地を定めることとなった。ジョージタウンは滝線のすぐ下にあり、外洋船が航行可能なことでは最も内陸にあった。 1791年1月、ワシントン大統領は首都立地法に従い、ダニエル・キャロル、トマス・ジョンソン、デイビッド・スチュアートの3人を首都建設のコミッショナーに指名した。その委員会には連邦政府地区の測量を監督させることとし、測量士にはアンドリュー・エリコットを指名した。ワシントンは1月24日に議会に対して立地選定結果を伝え、さらに東部支流の南のバージニア州アレクサンドリアまで首都が広がることを認めるよう首都立地法を修正する提案を行った。議会は大統領の変更提案に同意した。しかし、法の原文に対する拘りがあり、修正案では「ポトマック川のメリーランド州側以外では公共建築物の建設」を禁じる条項を入れた。1791年早春には、都市建築家のピエール・シャルル・ランファンが首都の都市計画作成を始めた。 アメリカ合衆国議会議事堂と大統領官邸の設計を募るためにデザインコンペが行われた。ホワイトハウスのデザインには建築家のジェイムズ・ホバンが選ばれたが、議会議事堂のデザインには満足できるものが無かった。期限を過ぎて提出されたウィリアム・ソーントンの議会議事堂デザインが選ばれることになったが、その計画は多くの面で素人のものだった。建設を監督させるためにスティーブン・ハレットが雇われ、1793年9月に着工となった。ハレットはワシントンやジェファーソンの意に反して設計に変更を加える事が多かったので、結果的に解任された。1795年10月に建設監督としてジョージ・ハドフィールドが雇用されたが、ソーントンの計画とそれまでになされた工事の質に不満を抱き、3年後の1798年5月に辞任した。 首都立地法の当初の意図にはワシントンD.C.の区画を売り出して、その利益で首都の建物建設費用を補おうとしていた。しかし、その区画を購入する者がほとんど居なかった。資金不足のためにワシントンD.C.での議会議事堂やその他政府建物の建設に遅れなど問題を生じさせた。 1800年に上院の翼が完成したが、下院の翼の完成は1811年になった。しかし、下院は1807年に下院翼に移転した。建物は未完成だったが、議事堂では1800年11月17日に最初の会期が開催された。ジョン・アダムズ大統領の奨励で議会が恒久的にワシントンD.C.に移された。アダムズは大統領として2期目の選挙で南部州の票を当てにしていた。
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