青年ドイツ
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青年ドイツ(せいねんどいつ、Junges Deutschland)は、三月前期(1830年 - 1850年ころ)に存在したドイツの青年作家グループである。ゲーテやロマン主義などの規範的な文学を批判し、文学の世界に政治の風を持ち込んだ。カール・グツコー、ハインリヒ・ラウベ、テオドール・ムント等が中心作家であり、ハインリヒ・ハイネ、ルートヴィヒ・ベルネ、ゲオルク・ビューヒナーなどもその一端を担ったと考えられている。自由主義的な気風から政権に敵視され、1835年にフランクフルト議会の決議によって多くの作家が出版禁止処分を受けた。
- 1 青年ドイツとは
- 2 青年ドイツの概要
- 3 関連項目
青年ドイツ派
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1834年にハイネは「キリスト教は、あの残忍なゲルマン的好戦心を幾分和らげたが、しかしけっして打ち砕くことはできなかった」として、カント主義者、フィヒテ主義者などの哲学者に気をつけるように警告して、ゲルマン主義者から大きな憤慨を買った。他方でハイネは同年、われわれドイツ人は最も強く知的な民であり、ヨーロッパの王位を占めており、わがロスチャイルドは世界のあらゆる財源を支配していると書いた。 1835年、フランクフルト議会はグツコー、ハインリヒ・ラウベ、ムント、ヴィーンバルクや、ユダヤ系作家のハイネとベルネなども参加していた青年ドイツ派の作品を禁書処分にした。青年ドイツ派はユダヤ系サロンの主催者ラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネの影響を受けていた。青年ドイツ派であったがゲルマン主義者でもあった文芸批評家メンツェルはドイツ人は地球史上最も好戦的な民族であり、ローマ帝国を解体し、全ヨーロッパを支配したと述べ、青年ドイツ派を「青年パレスティナ派」と告発した。青年ドイツのH・ラウベは親ユダヤ的だったが、1847年にユダヤ系作曲家マイアーベーアから盗作の嫌疑で告訴されてからユダヤ人を嫌うようになった。 1835年、作家ティークはユダヤ人は国家内異分子であり、ドイツ文芸を独占してしまったと述べた。作家インマーマンの『エピゴーネン』(1836年)では、ヤーンが指定した服装を着ていた登場人物が迫害されるが、ドイツ人に化けたユダヤ人の追い剥ぎであった。この作中でユダヤ人は「何かを手に入れようとしてうちは恭しく、きわめて低姿勢だが、いったんそれを手に入れると居丈高になる」と描かれた。 1842年、若い頃にドイツ解放戦争を経験したプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位:1840 - 1861)はキリスト教ゲルマン主義を信奉し、忌まわしいユダヤ人はドイツを混沌とした無秩序状態におとしめようとしていると述べ、ヤーンに鉄十字章を授与し、アルントの名誉回復を行った。王の養育係はユダヤ人をゲットーに再送すべきであると考えていた法学者サヴィニーだった。プロイセン政府は、ユダヤ人の兵役義務を免除すると同時に公職から退け、王の庇護下にある「隔離民族」とするユダヤ人囲い込み法案を提出した。1842年2月、ラビのフィリップゾーンの批判に対してカール・ヘルメスは、キリスト教国家プロイセンにおいてキリスト教徒とユダヤ教徒との法的平等は自己矛盾になると反論した。ヘルメスは無神論哲学者ブルーノ・バウアーに対してもキリスト教の敵として批判した。ユダヤ人共同体からのドイツへの愛国心をアピールした抗議が相次ぎ、この政策は実現しなかった 1844年、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した。1845年、小説家シェジーはユダヤ人がドイツ国民を隷属状態に置くために解放運動に精を出していると描いた。 1847年、プロイセン連合州議会代議士ビスマルクはフランクフルト市議会で、ユダヤ人が国王になると考えただけで深い当惑と屈辱の感情が沸き上がってくるし、フランクフルトのアムシェル・マイアー・フォン・ロートシルトは「正真正銘の悪徳ユダヤ商人」であるが、気に入ったと好意を寄せることも述べた。
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