間島氏勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 14:54 UTC 版)
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 生年不明 |
死没 | 没年不明 |
別名 | 彦太郎、右兵衛 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼→黒田孝高 |
氏族 | 間島氏 |
父母 | 父:間島氏常 |
間島 氏勝(まじま うじかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。播磨国福中城主、のち淡路国岩屋城主。姓は真島とも[1]。
出自
間島氏は赤松氏の傍流で、宇野則景の子・景能を祖とする。嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏とともに没落するが、康正2年(1456年)、南朝より神璽を奪還し(禁闕の変)、お家再興を果たした。その後、赤松氏のもとで加賀国守護代を務めたが、応仁の乱後に本貫地である播磨国明石郡平野荘に戻った[2]。
略歴
播磨国大山館主・間島氏常の子として生まれる[3]。天正8年(1580年)頃、播磨に侵攻した羽柴秀吉に臣従し、天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いの後の論功行賞で淡路国岩屋城主に任ぜられた[1]。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍し、天正14年(1586年)には方広寺大仏殿(京の大仏)の作事奉行を務める。その後、九州平定や小田原征伐にも従軍し、文禄元年(1592年)の朝鮮派兵では肥前国名護屋城に駐屯[1]、最終的に1万石を領したが[3]、文禄4年(1595年)の秀次事件に連座した[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担したため没落するが、その後、同族のよしみをもって黒田如水に寄食したという[1]。
脚注
間島氏勝(まじま うじかつ)
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「センゴク」の記事における「間島氏勝(まじま うじかつ)」の解説
播磨国衆。権兵衛が淡路島へ渡海する際にいつも自船で送り届けていた。淡路で菅達長が蜂起した際には権兵衛に知行と引き換えに加勢するよう要請を受けており渋々、受諾した。以後は仙石隊と行動を共にすることも多く、賤ヶ岳の戦い後には約定通り岩屋城を拝領する。しかし本人は仙石家の家臣ではないと事ある毎に強調していた。権兵衛の讃岐転封以降は別行動となった模様。
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