長平の戦いとは? わかりやすく解説

長平の戦い

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長平の戦い(ちょうへいのたたかい、中国語:長平之戰、Chángpíng zhī zhàn)は、中国戦国時代紀元前262年から紀元前260年にわたってが長平(現在の山西省高平市の付近)で激突した戦い。秦の勝利に終わり、戦後に秦の白起将軍により趙兵の捕虜40万が生き埋めにされ、趙の国力が一気に衰える原因となった。しかしこの人数は誇張されているとも言われており、実際、この戦いの翌年には趙は軍を立て直しており、秦の邯鄲攻撃を阻止している。




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長平の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:33 UTC 版)

昭襄王」の記事における「長平の戦い」の解説

紀元前263年昭襄王白起命じて韓を討たせた。野王降服させ、紀元前261年には韓の緱氏を落とすなど華々しい戦果挙げた紀元前260年昭襄王は左庶長王齕に命じて韓を討ち、韓の上党の地を取った。しかし、上党の民は秦ではなく趙に降ったため、趙は兵を出し長平駐屯した。4月王齕は趙軍を攻めたが、趙の将軍名将廉頗だったため討つことはできなかった。趙軍は塁壁築いて守った秦軍はそれを攻めた廉頗はますます塁壁高くして守り何度挑発しても応じなかった。 范雎一計案じ、趙の孝成王逆宣伝させ廉頗更迭させた。趙は廉頗更迭し、趙括将軍とした。秦はこれを聞いてひそかに白起上将軍とし、王齕副将として、軍中に「武安君が軍を指揮するのをもらす者があれば斬罪にする」と命令した趙括着任すると、すぐに兵を進め秦軍討った白起敗走する見せかけ伏兵を潜ませた。趙軍は勝ちに乗じて追撃したが、秦の伏兵により趙軍と趙の塁壁の間を遮断して糧道絶たれた。 昭襄王戦果聞くと、みずから河内の地に出かけて、民にそれぞれ一級任じやり、年15上の者を徴発して、大挙して長平に行かせ、趙の援軍糧道をさらに遮断させた。 9月、趙軍の絶食46日間に及び、互いに互い殺しあって人肉を食う惨状だった。趙括精兵とともに白兵戦演じ打開図ったが、秦はこれを射て趙括殺した。趙軍40白起降服したが、白起は「今回戦いきっかけになった上党の邑民は趙に帰服した。趙の士卒も、いつ心変わりするかわからない。皆殺しにしなければ叛乱起すだろう」と考えた。既に秦軍兵糧乏しく大量捕虜を養うだけの量がなかったことも白起叛乱への不安を抱かせた。白起は趙軍を偽って連れ出し40士卒穴埋めにして殺した。 後に長平の戦いと呼ばれるこの戦役で、趙の国力大きく傾いた。

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長平の戦い

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戦国時代 (中国)」の記事における「長平の戦い」の解説

紀元前262年白起は再び韓を攻めて野王取り上党郡と韓の本土切断され飛び地となった紀元前260年昭襄王は左庶長王齕に命じて韓を討ち、韓の上党の地を取った。しかし、上党の民は秦ではなく趙に降ったため、趙は兵を出し長平駐屯した。4月王齕は趙軍を攻めたが、趙の将軍名将廉頗だったため討つことはできなかった。趙軍は塁壁築いて守った秦軍はそれを攻めた廉頗はますます塁壁高くして守り何度挑発しても応じなかった。 范雎一計案じ、趙の孝成王逆宣伝させ廉頗更迭させた。趙は廉頗更迭し、趙括将軍とした。秦はこれを聞いてひそかに白起上将軍とし、王齕副将として、軍中に「武安君が軍を指揮するのをもらす者があれば斬罪にする」と命令した趙括着任すると、すぐに兵を進め秦軍討った白起敗走する見せかけ伏兵を潜ませた。趙軍は勝ちに乗じて追撃したが、秦の伏兵により趙軍と趙の塁壁の間を遮断して糧道絶たれた。 9月、趙軍の絶食46日間に及び、互いに互い殺しあって人肉を食う惨状だった。趙括精兵とともに白兵戦演じ打開図ったが、秦はこれを射て趙括殺した。趙軍40白起降服したが、白起は「今回戦いきっかけになった上党の邑民は趙に帰服した。趙の士卒も、いつ心変わりするかわからない。皆殺しにしなければ叛乱起すだろう」と考えた。既に秦軍兵糧乏しく大量捕虜を養うだけの量がなかったことも白起叛乱への不安を抱かせた。白起は趙軍を偽って連れ出し40士卒穴埋めにして殺した。この戦いが「長平の戦い」である。

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