鎌倉幕府滅亡後 結城朝祐として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 07:08 UTC 版)
「結城朝祐」の記事における「鎌倉幕府滅亡後 結城朝祐として」の解説
前述の通り、幕府滅亡後は結城朝祐と名乗った。幕府滅亡後は後醍醐天皇による建武の新政が開始されるが、天皇の信任を受けていた分家筋の白河結城氏の結城宗広が北畠顕家が陸奥国司として多賀城に着任したのに伴って奥州式評定衆、その子・親光が雑訴決断所の一員に任ぜられた一方で、結城氏の惣領であった朝祐は本領や陸奥国糠部郡七戸の地を安堵はされたものの、宗広・親光父子に比べると冷遇されていた。このため、のちに南朝方に属する白河結城氏や一族の関氏と対立して北朝方に味方し、箱根・竹ノ下の戦いでは足利尊氏に味方した(先陣を務めたとも)。そのまま尊氏に従い九州まで下向したが、建武3年(1336年)の多々良浜の戦いで戦死した。
※この「鎌倉幕府滅亡後 結城朝祐として」の解説は、「結城朝祐」の解説の一部です。
「鎌倉幕府滅亡後 結城朝祐として」を含む「結城朝祐」の記事については、「結城朝祐」の概要を参照ください。
- 鎌倉幕府滅亡後 結城朝祐としてのページへのリンク