鎌倉府再興(第5代鎌倉公方)
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「足利成氏」の記事における「鎌倉府再興(第5代鎌倉公方)」の解説
永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、嘉吉元年に将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始された。越後守護の上杉房朝や関東諸士から室町幕府への働きかけ(『鎌倉大草紙』)、あるいは上杉氏一門、家老から幕府への働きかけ(『永享記』)、幕府管領の畠山持国の支持などの結果、文安6年(または宝徳元年)に鎌倉府再興が承認される。持氏の遺児の成氏は信濃の大井持光(または京都の土岐持益)の元から、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。まだ年若い成氏は、鎌倉府再興のために運動した持氏旧臣や持氏方諸豪族、及び結果的には持氏を殺した上杉氏など、利害が相反する人々の間に置かれることになった。 新しい鎌倉府では、鎌倉公方に成氏、その補佐役の関東管領に山内上杉家の上杉憲忠(上杉憲実の嫡男)が就任した。
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