釜石製鐵所の再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)
戦時中の米海軍による艦砲射撃で岩手県の日本製鐵釜石製鐵所は壊滅的被害を受ける(釜石艦砲射撃)。文字通り火の消えた釜石市の街は暗い雰囲気に覆われた。1947年(昭和22年)新憲法下で初めて行われた衆議院議員総選挙で初当選を果たした地元出身の鈴木善幸は、日鉄釜石の労組の組合員とともに釜石製鐵所の再開を陳情するため経済安定本部副長官の永野を訪ねると、永野は「組合の諸君と地元の政治家が一体となって、日鉄釜石の再開に熱心に運動されるのは、鉄鋼マンとして釜石でスタートした私にとってこんなに嬉しいことはない」と即座に協力を確約。間もなく釜石製鐵所は操業を再開し、釜石市民の喜びは大変なものだったといわれる。1969年(昭和44年)日本製鐵と八幡製鐵の合併を目指す永野と稲山が、党三役の田中角栄幹事長、水田三喜男政調会長と総務会長になっていた鈴木に協力を要請してきた。両社の合併は、公取の審議が難航し、自民党内でも賛否両論があり、意思統一がされていなかった。鈴木は戦後すぐの恩義から積極的に動き、両社の合併が実現した。鈴木は「23年ぶりに陳情のお返しができた」と話した。
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