野田政権以降
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2011年9月、野田佳彦代表の下、新設された民主党政策調査会長代行に就任。また、10月4日からは新設された党経済財政・社会調査会長も兼務した。同年11月10日、凌雲会の会長に前原誠司が就くことになり、仙谷は顧問に就任した。また、政治団体としての凌雲会の代表者についても、従来は仙谷として届け出ていたが、これを期に前原に変更することになった。 2012年10月5日、内閣改造に伴う党人事により副代表に就任。同年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙では野中広務元自民党幹事長からも支援を受けたが、小選挙区で自民党の新人福山守に敗れ、比例復活もできず議席を失った。この結果については、官房長官時代の中国漁船衝突事件への対応が「弱腰外交」と批判されたこと、国会答弁で「自衛隊は暴力装置」と発言したこと、また「原発推進派」とみなされ一部の支持者が離反したことが要因に挙げられている。 2013年6月28日、衆議院の区割り改定法が公布、施行され、徳島県の小選挙区数は「3」から「2」に減少。 民主党県連は旧徳島1区の仙谷と旧徳島3区の仁木博文のいずれかを新1区の候補者にすることで調整していたが、2014年11月15日、仙谷は仁木と二人きりで会い、仁木に出馬するよう直接促した。同年11月18日、仙谷が政界を引退する意向を固めたことが各メディアで報じられた。 2018年10月11日22時30分、肺がんのため、東京都内の自宅で死去。72歳没。同日付で叙従三位、旭日大綬章追贈。
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