野原水嶺の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 00:05 UTC 版)
野原水嶺の死後、「辛夷」の代表を大塚陽子にという話が持ち上がった。「辛夷」には若くして現代歌人協会賞を受賞していた時田則雄がいて、時田が後継という話も出たもののまだ40歳前で若かった。結局、生前の水嶺からの依頼もあって中継ぎを務める気持ちで「辛夷」の代表者を引き受けることになった。しかし指導力があった水嶺のようにはいかないと考えた陽子は、代表ではなく編集発行人となり、指導者に率いられた組織から会員同士による平等な運営を図るようになった。 「辛夷」の編集発行人を務めている頃、陽子は多くの短歌雑誌への執筆、講演、テレビや新聞等のマスコミへの登場など、精力的に活動した。歌壇における活躍の中で、北海道を代表する女流歌人の一人との評価が定着していく。そのような中で1985年に帯広市文化奨励賞、1989年には十勝文化賞を受賞する。 1992年には第二歌集の「酔芙蓉」を出版した。「酔芙蓉」は、第七回北海道新聞短歌賞を受賞する。同じく1992年、「辛夷」の通算500号を期に、陽子は編集発行人を勇退し、時田則雄に後を託した。 陽子は60歳以降はかねがね自分自身のために生きようと決めており、「辛夷」の代表を勇退した翌年の1993年、帯広から伊達市に転居した。伊達市はかつて結核の療養生活を送った洞爺湖に近く、陽子にとって一種の原点回帰でもあった。陽子は伊達市に転居後も、毎月「辛夷」に短歌、随筆の投稿を続けた。 2007年8月16日、大塚陽子は体調を崩して室蘭の病院に入院し、8月18日に亡くなった。倒れる数日前まで「辛夷」の関係者と普段通りに電話で打ち合わせをこなしていた。肥大した胆石が胆嚢を破り、流れ出した胆汁が腸など周辺の臓器に深刻な損傷を与えたことによる多臓器不全が死因であった。肩書や名誉に関心が薄かった陽子は、亡くなるまでに出版した歌集は「遠花火」と「酔芙蓉」の二つのみであり、詠んできた多くの短歌が未整理のままであった。生前、周囲は第三歌集の発表を勧めたものの拒否し続けており、没後、「辛夷」の関係者は全歌集等の出版を計画したものの、本人の遺言に従って取りやめになった。
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