釈迦の師事とは? わかりやすく解説

釈迦の師事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/04/15 01:48 UTC 版)

ウッダカ・ラーマ・プッタ」の記事における「釈迦の師事」の解説

釈迦出家直後に道を求めんとして、まずアーラーラ・カーラーマのもとを訪れ、彼から空無辺処無所有処とも)を聞き即座に了達するが、それはいまだ真の悟りを得る道ではないと感じ次に彼のもとを訪れたとされる(なお別所伝ではアーラーラの前にバッカバ仙人のもとを訪れたともある)。 彼は、非想非非想処境地までを証得し、釈迦にこの境地を示すも、釈迦即座にこの境地至ったしかるに彼もアーラーラと同じく彼の僧団を共に率いていこうと釈迦要請するも、釈迦自身はこの境地もいまだ真の悟りを得る道ではないと感じ去って自ら道を求めたという。釈迦彼のもとを去って6年間にわたって苦行した。 南伝では、釈迦成道して初めて法を説法する初転法輪)を決意する7日前に死した伝え文献Mahā-vagga.Ⅰ.6.1)もある。

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釈迦の師事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 08:49 UTC 版)

ウッダカ・ラーマプッタ」の記事における「釈迦の師事」の解説

釈迦出家直後に道を求めんとして、まずアーラーラ・カーラーマのもとを訪れ、彼から空無辺処無所有処とも)を聞き即座に了達するが、それはいまだ真の悟りを得る道ではないと感じ次に彼のもとを訪れたとされる(なお別所伝ではアーラーラの前にバッカバ仙人のもとを訪れたともある)。 彼は、非想非非想処境地までを証得し、釈迦にこの境地を示すも、釈迦即座にこの境地至ったしかるに彼もアーラーラと同じく彼の僧団を共に率いていこうと釈迦要請するも、釈迦自身はこの境地もいまだ真の悟りを得る道ではないと感じ去って自ら道を求めたという。釈迦彼のもとを去って6年間にわたって苦行した。 パーリ仏典『アーリヤ・パリエサーナ・スッタ』(聖求経)とパーリ仏典『マハサッチャカ・スッタ』(薩遮迦大経)に、アーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマプッタへの師事二人のもとを離れたこと、開悟した後にまずはこの二人教え説こう思い立つが、この二人直前死去していることを知ったという話がある。以下の内容は、これら二つ経典共通している。 [釈尊次のように語った。] 「この後比丘らよ、善きものの探求者平安へと至る比類なき至上の道を探すとなっていた私は、ウッダカ・ラーマプッタところを訪れ彼に近づくと、次のように呼びかけた。『先生、私はここであなたの教え学び修行させてほしいのです』 すると、比丘らよ、ウッダカ・ラーマプッタは、私に次のように言った。『あっぱれなやつだ。ここにとどまるがよい。私が説く真理とは、叡智ある者がいったん師からそれを学び、みずからの深知をもってそれをすみやかに悟ったならば、彼はそのなかに入っていき、そのなかにとどまることができる、そんな真理である』 そういうわけで比丘らよ、私はとてもすみやかに彼の教え身に付けた。もしもたんに口先知ったかぶったり、教わったことをくりかえしてみせたりだけでよいのなら、比丘らよ、私は教えに関する知識披露したり、先輩らから聞いた教えくりかえしたりできるようになり、自分他の者たち同様に知った』とか『わかった』とか言えるようになったとはいえ比丘らよ、私は次のように思ったウッダカ・ラーマプッタは、たんに彼が信じることを説いているのではない。彼は彼自身の深知をもってみずからがそのなかに入っていき、そのなかにとどまっているところの真理説いている。というのもウッダカ・ラーマプッタの知は間違いなく真理そのように知ることに由来しているからだ。 そこで私は、比丘らよ、ウッダカ・ラーマプッタところに行き彼に近づくと、次のように問うた。『ラーマ先生あなたはどの程度まで、あなたみずからの深知をもって真理悟り、そのなかに入っていったうえで、それを説いているのですか?』 私がこう問うと、比丘らよ、意識発動がないともないのではないとも言えない状態[非想非非想処]を自分知ったウッダカ・ラーマプッタ言った。そこで、比丘らよ、私は次のように思った確信はラーマプッタのなかにだけあるのではない。私のなかにも同じ確信がある。力はラーマプッタのなかにだけあるのではない。私のなかにも同じ力がある。注意深さはラーマプッタのなかにだけあるのではない。私のなかにも同じ注意深さがある。意識集中はラーマプッタのなかにだけあるのではない。私のなかにも同じ意識集中がある。直観的な知はラーマプッタのなかにだけあるのではない。私のなかにも同じ直観的な知がある。それならばこれからは、ラーマプッタが説くところの教えを私もまたみずから体現すべく努めてみてはどうか? みずからの深知をもってそれを悟り、そのなかに入っていき、そのなかに留まろうとしてみたらどうか? そして私は、比丘らよ、とてもすみやか、とても短いうちに、みずからの深知をもってその真理悟り、そのなかに入っていき、そのなかにとどまるようになった。 そして、比丘らよ、私は改めウッダカ・ラーマプッタところに行き彼に近づくと、次のように問うた。 『ラーマ先生、あなたもこの程度まで、あなた自身の深知をもって真理悟り、そのなかに入っていき、それを説いておられるのですか? 先生、私はこの程度まで、私みずからの深知をもって真理悟り、そのなかに入っていき、それを説くようになりました先生、私もまた、みずからの深知をもってあなたの説く真理悟り、そのなかに入っていき、そのなかにとどまっています』 『あっぱれなやつ。これはお互いにとって有益なことだ。聖なるもの求めて旅路このように同伴者を得るのは、めでたいことだ。私がみずからの深知をもって悟ったうえで、そのなかに入っていき、説くところの真理は、おまえがみずからの深知をもって悟ったうえで、そのなかに入っていき、そのなかにとどまっているところの真理と同じである。おまえがみずからの深知をもって悟ったうえで、そのなかに入っていき、そのなかにとどまっているところの真理は、私がみずからの深知をもって悟ったうえで、そのなかに入っていき、説くところの真理と同じである。私が知る真理はおまえが知る真理である。おまえが知る真理は私が知る真理である。それでは、あっぱれなやつ、これからは、われわれふたりでみんなの指導にあたることにしよう』 こうして、比丘らよ、私の先生だったウッダカ・ラーマプッタは、生徒であった私を彼と同格見なし、私に最高の位階授けた。そこで、比丘らよ、私は次のように思った。この教え意識発動がないともないのではないとも言えない状態に人を導きはするが、それだけで、それは人を[心を下に引くものへの]無関心と熱のなさ、[外から誘導された心の動きの]止み静まり、深い知のあらわれ目覚め究極解放へと導かない。そこで私は満足することなく、この教えに心を向けるのをやめ、そこから離れた。」 (参考口語訳 郷 尚文)

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