連合国の攻勢継続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:37 UTC 版)
「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「連合国の攻勢継続」の解説
1915年春における連合国軍最後の攻撃はヴィミー山稜(Vimy Ridge)を目標とした第二次アルトワ会戦(英語版)である。フランス第10軍が5月9日に6日間の事前砲撃の後に進撃し5キロの前進に成功した。しかしドイツ軍は機関銃陣地を強化した上で砲撃を始め、これに耐えかねたフランス軍は15日には進撃が停止された。 1915年の秋には「フォッカーの懲罰」と称されるドイツ空軍の攻勢が開始され、連合国側の全ての偵察機が前線付近から駆逐された。偵察機は砲撃の評価や塹壕の航空写真の為に利用されていたが、プロペラと機関銃の同調機(英語版)を備えたドイツ機に全く対抗できなかった。 1915年9月に連合国軍は第二次シャンパーニュ会戦(英語版)と称される攻撃を実行した。夏の間中フランス軍はこの攻撃の準備を行っており、イギリス軍ではフランス軍との共同体制を緩和することで前線の主導権を掌握しようと試みていた。事前砲撃の目標は航空写真により決定された。攻撃は9月22日に開始された。歩兵による突撃は25日に行われ、ある程度の進撃に成功した。しかしこの攻撃を予想していたドイツ軍は前線の後背に3キロから6キロにもおよぶ縦深陣地を構築しており、月末になるとフランス軍の進撃は頓挫してしまった。 25日にはイギリス軍もルース(英語版)においてルースの戦い(英語版)を、英仏軍が第三次アルトワ会戦(英語版)を開始した。4日間の事前砲撃によって250,000の砲弾と5,100の塩素ガス弾が消費された。攻撃には2個軍団が攻撃正面に、さらに別の2個軍団がイーペルでの側面支援に用いられた。イギリス軍には機関銃の攻撃による多大な死傷者が発生し、その成果はほとんど得られなかった。10月13日の攻撃においては多少は改善されたが期待されたほどの結果はなかった。シャンティイでの連合軍諸国会議(1915年12月6日 - 12月8日)後、12月10日にイギリス軍指揮官のジョン・フレンチは更迭され、ダグラス・ヘイグが後任となった。
※この「連合国の攻勢継続」の解説は、「西部戦線 (第一次世界大戦)」の解説の一部です。
「連合国の攻勢継続」を含む「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事については、「西部戦線 (第一次世界大戦)」の概要を参照ください。
- 連合国の攻勢継続のページへのリンク