近代の坊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 22:55 UTC 版)
明治5年に大区小区制が施行され、南方郷は第19大区となり、坊村と泊村で1つの小区が組織された。1879年(明治12年)に郡区町村編制法が施行されたのに伴って、坊村の一乗院跡に戸籍の事務などを行う戸長役場が設置された。町村制施行直前には久志村、秋目村、坊村、泊村の各村を管轄していた戸長役場が4村の地理的に中心に位置していた久志村に統合されたという。ただ、経済的に規模の大きい坊泊から久志にある戸長役場までの交通は不便であり、坊泊地区への移転を主張する意見もあったが、久志・秋目は地理的中心地から移転するのは不平等であるとして反対した。 1889年(明治22年)には、町村制が施行されたのに伴い、南方郷の西部にある坊村、泊村、久志村、秋目村の区域を以て西南方村(にしみなみかたむら)が成立した。これに伴い、それまでの坊村は西南方村の大字「坊」となった。 西南方村が成立したのちも旧来の村の単位で戸主会や総代会が組織された。戸主会や総代会は区有財産の管理を行っていたほか、地域住民の代弁者として村政に対して強い発言権を有するものとなっており、坊と泊が共同で坊泊戸主協議会を組織した。戸主協議会は町村制における自治体と同等の規約を制定し、強力な財力を基に地場産業の振興開発や地域住民の生活の向上のための事業が行われた。特に漁業に関しては資本を集約し会社を設立してブリの養殖やカツオ漁、製氷業、鰹節加工を行っていたという。 第二次世界大戦中には本土決戦に備え、坊泊海岸には大日本帝国海軍の海上特別攻撃隊の部隊、大日本帝国陸軍第百四十六師団(護南部隊)の一部、坊ノ岬灯台にも灯台部隊が駐留していた。
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