財政逼迫と御用金の増加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
「越後長岡藩」の記事における「財政逼迫と御用金の増加」の解説
当初から軍役や助役が多かったために、藩財政は苦しく、初代の忠成の晩年には既に大津の米宿である打它家から借財を重ねており、熱心な新田開発による増収の恩恵はそれ程は続かず、むしろ出費の増加によって藩財政は次第に深刻さを増した。 すなわち、藩主・家中の消費生活の進展による経費増大や幕府命令による公役負担、更には享保13年(1728年)の居城長岡城までもが全焼する三蔵火事を初めとする大火災や洪水による損害とその復旧、悠久山や藩校建設の出費の増加、宝暦5年(1755年)から天明8年(1788年)にわたる信濃川水運の船問屋利権の一時的喪失や新発田藩開墾事業の松ヶ崎分水による新潟湊への打撃による商業上の減収により、18世紀に入ると財政問題が深刻化した。さらに文政11年(1828年)の三条地震で田畑荒廃955町歩や城下全壊家屋220件、郷中全壊家屋3千522件などの被害を出した『長岡市史』。 これに対して藩は借財や知行半分借り上げで対応することとなった。元禄以降からは長岡町や新潟町、郷中からも借用し、享保13年(1728年)には藩士の知行半分借り上げを行っている。加えて幕府からも忠寿の代に7千両、忠周の代に5千両借用している。 このため、支配下の郷中や長岡城下町、あるいは新潟町への御用金・才覚金の賦課がたび重なり、蜂起事件も起こった。明和5年(1768年)には御用金の命令に反発した新潟の町民が蜂起する事件(新潟明和騒動)を招いた。
※この「財政逼迫と御用金の増加」の解説は、「越後長岡藩」の解説の一部です。
「財政逼迫と御用金の増加」を含む「越後長岡藩」の記事については、「越後長岡藩」の概要を参照ください。
- 財政逼迫と御用金の増加のページへのリンク