謹慎解除
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 00:08 UTC 版)
文久3年(1863年)2月4日,謹慎解除となる。久留米藩では嘉永以来の保守派重臣派が藩政を掌握しており,真木保臣ら討幕派を弾圧する傾向であった。他方で中央情勢次第では真木保臣らの存在を必要とする状況となれば脱藩の罪を許し,これを利用し中央政界進出の契機としたい考えもあったとみられる。池尻茂左衛門(葛蓽)らかつての天保学連外同志の流れを引くグループが,長州藩,公卿有志の間に真木保臣の保釈を実現するために奔走し,保臣,弟外記,二男菊四郎ほか謹慎が解除された。
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