製作と興行とは? わかりやすく解説

製作と興行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:57 UTC 版)

雪夫人絵図」の記事における「製作と興行」の解説

1968年1月女優美しく撮ることできこえた松竹カメラマン成島東一郎初め東映招かれた。成島使用するフィルムや、現像のこと、衣装など熱意込めて語り東映東京撮影所スタッフルーム新春ふさわしく優雅な気分包まれた。成島チーフ助手だったのが阪本善尚で、同じチーフ助監督だった内藤誠仲良くなり、1982年内藤監督の『俗物図鑑』でカメラ担当している。 1968年1月30日クランクイン2月雪の野尻湖ロケ他、3月11日ダビング終了当時東映製作のほとんどの映画の題名変更なしも含め命名していた岡田茂プロデューサーも、さすがに舟橋聖一相手では題名変えることはできず、原題のまま公開予定していた。 1968年2月報道では1968年4月11日から石井輝男監督の『続・決着』との併映予定もあったが、テンポが遅いなど、ヤクザエロ全盛東映調でないと判断され封切り日が決まらず、そのままお蔵入りとなった東映やらないなら譲ってもらえないかと松竹から申し入れがあったが、佐久間主演映画他社には譲れない断っていた。その後佐久間東映退社したため、7年後1975年日活売り日活が『襟裳岬』との二本立て一般映画枠公開した1970年代入り東映洋画配給東映洋画)に乗り出し興行松竹東急レクリエーションSTチェーンを組むようになり、松竹との関係が密になっていたため、さすがに東映も少し気が引け岡田茂東映社長側近鈴木常承営業部長奥山融松竹専務元にお詫びに行かせたが、松竹は裏の経緯全部知っていて、おまけに当時松竹寅さん絶好調で『砂の器』でも大当たり取り余裕鈴木をからかう程度済んだ日活1971年から日活ロマンポルノ移行していたが、一般映画時折作ることは最初から表明していた。日活経営苦労し、何か大きな作品作って通常マーケット乗せ突破口開こうとしていたといわれる。『雪夫人繪圖』『襟裳岬』の二本立ては、良質作品二本立てヒット予想もあったが、興行には失敗した

※この「製作と興行」の解説は、「雪夫人絵図」の解説の一部です。
「製作と興行」を含む「雪夫人絵図」の記事については、「雪夫人絵図」の概要を参照ください。

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