製作と興行
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1968年1月、女優を美しく撮ることできこえた松竹のカメラマン・成島東一郎が初めて東映に招かれた。成島は使用するフィルムや、現像のこと、衣装など熱意を込めて語り、東映東京撮影所のスタッフルームは新春にふさわしく優雅な気分に包まれた。成島のチーフ助手だったのが阪本善尚で、同じチーフ助監督だった内藤誠と仲良くなり、1982年内藤監督の『俗物図鑑』でカメラを担当している。 1968年1月30日クランクイン、2月雪の野尻湖ロケ他、3月11日ダビング終了。 当時、東映製作のほとんどの映画の題名を変更なしも含め、命名していた岡田茂プロデューサーも、さすがに舟橋聖一相手では題名を変えることはできず、原題のまま公開を予定していた。 1968年2月の報道では1968年4月11日から石井輝男監督の『続・決着』との併映予定もあったが、テンポが遅いなど、ヤクザとエロ全盛の東映調でないと判断され、封切り日が決まらず、そのままお蔵入りとなった。東映でやらないなら譲ってもらえないかと松竹から申し入れがあったが、佐久間の主演映画を他社には譲れないと断っていた。その後佐久間が東映を退社したため、7年後の1975年に日活に売り、日活が『襟裳岬』との二本立てで一般映画枠で公開した。1970年代に入り、東映が洋画配給(東映洋画)に乗り出し、興行で松竹、東急レクリエーションとSTチェーンを組むようになり、松竹との関係が密になっていたため、さすがに東映も少し気が引け、岡田茂東映社長が側近の鈴木常承営業部長に奥山融松竹専務の元にお詫びに行かせたが、松竹は裏の経緯も全部知っていて、おまけに当時の松竹は寅さんが絶好調で『砂の器』でも大当たりを取り余裕、鈴木をからかう程度で済んだ。 日活は1971年から日活ロマンポルノに移行していたが、一般映画を時折作ることは最初から表明していた。日活は経営に苦労し、何か大きな作品を作って通常マーケットに乗せ、突破口を開こうとしていたといわれる。『雪夫人繪圖』『襟裳岬』の二本立ては、良質作品の二本立てとヒットの予想もあったが、興行には失敗した。
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