行司をめぐる主な出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 06:46 UTC 版)
1791年(寛政3年)6月11日 - 征夷大将軍徳川家斉の上覧相撲の際、町奉行池田筑後守から吉田司家(吉田追風)は認められなかったが、6月10日になって老中戸田采女正から行司を命じられ、一晩で土俵を作り「方屋開」を初めて行なった。 1827年(文政10年) - 吉田司家は江戸幕府により「江戸相撲方取締」という役を認められた。 1910年(明治43年)5月の夏場所に衣装がそれまでの裃、袴から烏帽子、直垂となった。 1927年 - 大坂相撲との合併で大阪相撲の立行司・木村玉之助が加わり、立行司は3人になる。もう1人の大坂立行司木村清之助は三役格に降格。 1951年 - 副立行司を新設、13代木村玉之助は副立行司に降格。 1960年 - 行司停年制実施、行司の年寄襲名も不可能になる。副立行司を廃止。 1971年 - 12月に協会が発表した改革案に反発した25代木村庄之助以下行司全員が初のストライキを起こす。12月25日には序ノ口格の1人を除く30人が一斉に辞表を提出した(翌日に辞表は撤回)。 1972年 - 1月場所より行司の完全年功序列制を廃止し、成績考課を導入。この1月場所で差し違えした25代庄之助は出場停止となるが、3月に停年を待たずして退職した。3月場所では22代式守伊之助が2番の差し違えをし、13日目の1日間出場停止、この日は史上初の立行司なしを記録した。 1993年 - 28代木村庄之助、27代式守伊之助が相次いで停年退職し、史上初の番付上立行司不在となる。結びの一番を三役格の3人が交互で担当し伊之助を争った結果、9代式守錦太夫が昇格(後の29代庄之助)。 2006年 - 1月場所後、32代木村庄之助、34代式守伊之助、三役格木村一童が停年退職したため、3月場所、三役格3代木村朝之助が35代式守伊之助を襲名、翌5月場所には伊之助在位1場所で33代木村庄之助を襲名。同場所、三役格11代式守与太夫が36代式守伊之助(のち34代木村庄之助)を襲名するが、与太夫は2005年9月場所に三役格昇格以来わずか4場所(史上最短)で立行司に昇格した。 2018年 - 木村庄之助不在の中、40代式守伊之助が地方巡業中の不祥事により1月場所から3場所連続出場停止の後辞職することになったため、25年ぶりに立行司不在の場所が発生、三役格筆頭の11代式守勘太夫が結び2番を担当することになった(1994年の立行司不在時は、三役格行司が交互に結びを務めたが、今回は固定)。
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