著述と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 10:14 UTC 版)
調査の旅から帰郷した後は、享和元年(1801年)に江戸駒込の吉祥寺付近に修静庵という塾を構えて何人かの弟子を講義し、貧困と戦いながら、享和元年(1801年)に『山陵志』を完成させた。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから現在も用いられる前方後円墳の用語が生まれた。ついで、『職官志』の編纂に着手した。 文化4年(1807年)、北辺防備を唱えた『不恤緯(ふじゅつい)』を著して幕閣に献上したが、幕府の警戒するところとなり喚問を受けて閑居させられる。同年、母の病の報を聞き、宇都宮へ帰って看病しつつ、『職官志』の執筆を進めた。 文化5年(1808年)1月に江戸へ戻り『山陵志』を刊行、光格天皇が天覧するに至るが、町奉行の取り調べに遭った。これを不服として『憤記』を執筆したところ、再度取り調べを受け、林述斎の弁明で事なきを得た。文化7年(1810年)、居を神田石町の鐘撞新道に移し、同年、師・鈴木石橋の資金援助を受け『職官志』を一部刊行した。江戸では、大学頭・林述斎に文教振興を建議している。構想していた九志(神祇志・山稜志・姓族志・職官志・服章志・礼儀志・民志・刑志・兵志)のうち出版できたのは『山陵志』『職官志』だけであり、それも借財を背負ってのことである。『職官志』を通して平田篤胤との親交が始まった。 文化10年(1813年)6月、病に伏し、赤痢を併発して46歳で病没。死に臨み、「俺を思うならば、俺の意志を読み、俺の生事の労を想え。霊は形をもってせず、義をもって憑(よ)るぞ」、「義とは何ぞや、俺の志を観れば見ることができる」という言葉を残した。現在の東京都台東区の臨江寺に葬られた。
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