華北分離工作と多田声明
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1935年(昭和10年)8月、多田は梅津美治郎の後任として、天津に司令部を置く支那駐屯軍司令官に補された。この時期、日本軍は華北分離工作を進めており、華北に旧軍閥の自治政府を作らせるべく画策していた(彼ら旧軍閥は形式的には中国国民党に所属していたが、必ずしも蔣介石に服しているとは言い難かった)。華北を国民政府から分離させる狙いは、関東軍の要求で対ソ戦のためには側背の安全を確保する必要があったこと、また総力戦体制構築のためには華北の資源を確保する必要があったことが挙げられる。 6月には豊台兵変、10月には香河事件という“中国人による”自治運動(もちろん、背後には日本軍部がいた)が起きていた。 こうした状況下、多田は9月24日の記者会見で、 北支より反満抗日分子の一掃 北支経済圏の独立 北支五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)の軍事的協力による赤化防止 の三点を強調、北支五省連合自治体結成への指導を要する、との声明を出し、中国側を刺激することとなる。 この「多田声明」は大問題となり、広田弘毅外相は正式な声明ではなく、記者団に対する談話であると釈明するほどであった。「多田声明」が多田の本意であったかは定かではないが(現在の研究では、幕僚が用意したものという見方もある)、いずれにせよ多田の失点となったことは間違いない。 その後、日本軍部の圧力により、11月25日に冀東防共自治委員会(12月25日に冀東防共自治政府と改称)が成立した。しかし、これは自治の名を借りた傀儡政権であり、このようなやり方に多田は冷淡な態度をとったという。 なお、中国側は日本の圧力をかわす目的で12月18日に冀察政務委員会をつくり、華北には性格の異なる二つの自治政権が誕生することになった。 1936年、多田は冀察政務委員会の委員長・宋哲元と防共協定を結んだ。
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